2004年9月5日(日)/55分枠
日本国へ侵攻せよ!
〜 スターリンの野望と自衛隊 〜
制作=札幌テレビ
「北海道の北半分を引き渡して欲しい」1945年日本が無条件降伏した翌日、ソ連書記長スターリンが米国大統領に宛てた文書。ソビエトが太平洋の覇権を握るには冬でも凍らない宗谷海峡が必要だった。米国に断られたスターリンは海底トンネルの着工を命じた。欧州とサハリンを鉄路で結び兵員を結集させるためだ。危機感を抱いた米国は日本に警察予備隊を創設させる。米国による米国のための自衛隊の誕生。半世紀を経て軍靴の向かう先は米国のための戦場イラク。海底トンネルの謎と自衛隊のルーツをたどり、海外派兵の意味を問う。


 2004年9月12日(日)/25分枠
今は泣いたらあきません
〜 岡本依子・涙で綴られた4年間 〜
制作=読売テレビ
シドニー五輪のテコンドー銅メダリスト岡本依子(32)。独特の関西弁で号泣し一躍、時の人となった。しかし彼女のその後は決して順風満帆ではなかった。五輪後テコンドー連盟が分裂。“出場権を得ながらアテネに行けない”という前代未聞の危機に両親と近所の人が動いた。2週間で10万人近い署名。それを知った岡本は「今は泣いたらあきません」と号泣。その後JOCは異例の個人派遣を決定した。番組では数々の独占映像をもとに岡本依子の軌跡を、彼女を支え続けた両親や周囲の人を絡めて描く。


 2004年9月19日(日)/25分枠
アテネに咲け!ニッポンの花
〜 ケンゾーとユニクロの挑戦 〜
制作=日本テレビ
アテネオリンピックの開会式。日本選手団が着ていたユニホームには花柄があしらわれていた。ジャケットスタイルが多い他の国に比べると異彩を放つ日本チームのユニホーム。6月に発表された時はとまどいの声も聞かれたが、男性4種類、女性5種類とバリエーションを持たせたユニホームは、夜のスタジアムに明るい色合いで、選手の評判は悪くなかった。
今回デザインを担当したのはファッションデザイナーの高田賢三(65)。夏のオリンピックのユニホームを担当することになったユニクロが、日本で最も高名なデザイナーをと、賢三にデザインを依頼した。しかし賢三自らが育てたKENZOブランドは、93年に既に買収され、専属デザイナー契約も4年前に終了、引退した形となっていた。
日本を離れて40年、今では日本語よりもフランス語の方がうまいかもしれない賢三だが、住まいも食事も和風が好み。常に頭にあったのは故郷への思いだ。今回は、「オリンピックにのぞむ日本チームのユニホーム」と聞いてデザインを引き受けた。しかし、賢三がユニホームのデザインに挑戦するのは、これが初めて。これまで客室乗務員のユニホームなどの依頼があっても、ユニホームという制約付きのデザインは断ってきた。しかも、今回は"画期的なデザイン"が要求されていた。それは、「個性を持たせつつ、全体で見たときに一体感を持つもの」という相反するテーマだ。
取材中、賢三に今回の仕事について話を聞くと必ずかえってきた言葉が、「怖い」という言葉。ファッションの世界で名声を得た上に、今年、パリの名誉市民の称号を得て、名誉も富も得た賢三。しかし一度限界を感じて引退した賢三は、引き受けた大仕事を前に、果たして自分の力が通用するのかという不安を感じながら初めてのユニホームデザインに挑戦していた。


 2004年9月26日(日)/25分枠
濁流に消えた命
〜 届かなかった避難勧告 〜
制作=テレビ新潟
7月13日、新潟県を襲った集中豪雨。木工工場を経営する佐藤誠さん(42)は最愛の父・清さん(71)を失った。三条市では他に8人が死亡したが、ほとんどが家の中でおぼれて死んだ高齢の“災害弱者”だ。水害直後、三条市長は避難勧告に落ち度はなかったと強調したが、取材の過程で、ほとんどの自治会長に勧告が伝わっていなかったことが判明した。一方、中之島町でも避難勧告の遅れが問題になっている。尊い命は救えなかったのか?行政の対応を検証するとともに被災住民の泥まみれからの復興を追う。