放送内容

2017年8月 8日 ON AIR

鈴木明子が経験した拒食症

プロフィギュアスケーター鈴木明子。
彼女は2014年に23年間の選手生活を引退した。


2度のオリンピック出場を果たした鈴木だが、
実は拒食症を発症し、体重は34キロに!


しかし彼女は、この病気がなかったら一度もオリンピックに
行けなかったかもしれないと語っている。
鈴木明子の経験した拒食症とは一体どんなものだったのか?


"痩せれば跳べるという思いでひたすら減量"


6歳からスケートを始めた明子は、高校生になると日本のトップ選手に成長。
トップ選手は家族一丸となって競技に打ち込む。
名古屋で割烹料理店を営む鈴木家もそうだった。


大人の体に変化し体重が増える時期。
多くの選手は体重コントロールに失敗し脱落していくという。
そんなこともあり、明子の母は娘の体重管理に厳しかった。それも娘の夢のため。


2003年。高校を卒業した明子は、親元を離れ一人仙台へ。
フィギュアの名門、東北福祉大への進学を決めた。


フィギュアスケート部のコーチは、長久保裕。
自らも札幌オリンピックに選手として出場している人物だった。


優秀な指導者の元、明子の世界へ向けた練習がスタートした。
その頃、明子は160センチ48キロ。
体重が増えないよう気をつけていたが、ある日、長久保コーチから
「あと1キロだな。1キロ減らせばいいジャンプが跳べる」


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この言葉で、明子は全てを体重のせいだと考えるようになっていく。
しかし...いくら減量しても48キロ以下にはならない。


当時明子は、安藤美姫選手や浅田真央選手といった年下の選手たちのスタイルの良さを見て、自分の体型にコンプレックスを抱いてしまっていた。
自分はもう手も伸びないし、足も伸びない...変えられるのは体重しかない、そう思い込んだ。


特に気をつけたのは肉や油。一切口にしなくなった。
さらに毎日30分走り、カロリーを消費することも欠かさない。


"競技のための減量が命を脅かす"


やがて明子に変化が。
それはクロアチアでの国際大会に出場した時、あるステーキハウスでのことだった。


数か月ぶりの肉...もともと肉が大好きだった明子。
その美味しさを噛みしめようとした。
しかし、口に入れた瞬間...激しい吐き気に襲われた。


この時、明子の胃は肉を受け付けなくなっていたのだ。
その日を境に、食べ物を見ると吐き気がし、何も食べられない日が続く。
すると、体重が48キロを切った。


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目標を達成した明子は痩せたから跳べるはず...そう思っていたが、
ジャンプの失敗を繰り返す日々が続いた。


もっと痩せなきゃだめなんだ。
そう思った明子は、カロリー本を買い食材のカロリーを把握。
口に入れるものを記録して、1食300キロカロリーと決めた。
白米はきっちり100g。計らないと太るのが怖くて食べられなくなった。


その結果...何と明子は40キロに。
1か月半で8キロも痩せていたのだ。
しかし、そうなると体力は落ちスケートどころではなくなった。


見かねた監督は練習を強制的にストップさせ、明子を一度実家へ帰すことにした。
娘の姿を見た両親は目を疑った。世界を目指して大学へ進んだはず。
その娘が1か月半であの姿に。母はスケートをやめさせることも考えた。


明子は自宅に帰っても豆腐や野菜を少量食べるだけ。
今にも倒れそうな娘を見て、つい母も肉を食べるように強く言ってしまう。


食べれば治ることは分かっている。でもそれが出来ないのが今の自分。
自分ではどうすることも出来ない。


誰にも理解されない孤独の中、明子の体重はついに34キロまで落ちた。
病院で拒食症だと診断され...医師には回復に3年かかると診断された。


明子は目の前が真っ暗になった。
3年後のトリノへの夢が音を立てて崩れた。


"生きようとする自分の体...そして復活"


病院でもらった薬は6種類。精神安定剤のほか、食欲を増進させるものも。
しかし...明子はまだ体重が増える事の恐怖を感じてしまい、
親の前では薬を飲んでいたが、それ以外では飲むことができなかった。


そんな明子が母と銭湯に行った時のこと...
母が明子のお腹の変化に気付いた。明子もそこで初めて気づいたお腹の変化。
周りからじろじろ見られる位のガリガリのお腹だったが、そこに産毛が生えていた。


病院の先生に聞くと、体脂肪がなくて寒さから体を守るために生えたものだという。
明子の体は生きたいと思っていたのだ。


すると母が明子へ言った。
スケートを続けたいのなら、食べられるものから食べればいいよ、と。


この言葉で、初めて母に受け入れてもらえたと思えた明子。
そしてこの日から食べ物を少しずつ口にできるようになった。


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半年ぶりに東北福祉大に戻った明子は、ウォーキングから始めるように指示された。


明子の復活を信じ、コーチも少しずつ段階を踏んで指導していった。
その結果、発症からわずか1年で試合に出るまで回復。
2007年には国際大会出場を果たした。


ありのままの自分に自信を持つ。これが、拒食症を通じて得たこと。
2010年、バンクーバー。浅田真央とキム・ヨナの金メダル争いが注目されたが、
8位入賞した鈴木明子の奇跡の復活に心を打たれた。


その後もソチと2大会連続でオリンピック出場。入賞を果たした。

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