1分20秒の遅れを取り戻す悲劇
去る10月21日...台湾で列車事故が起きた。
制限速度のおよそ倍の140km以上でカーブに進入し脱線。
この事故によって、死者18人、267人が重軽傷を負った。
原因は列車の異常と運転士の操作ミスとされている。
そして、この事故で多くの人が思い出しただろう...
日本で起きたより被害の大きかった悲惨な列車事故を。
それは2005年4月25日に発生した、兵庫県・尼崎市のJR福知山線脱線事故。
朝のラッシュ時に起きたこの事故。死者107人、562人が重軽傷を負う悲劇となった。
そしてこの事故に潜む、ある問題が明らかとなった。
あの日...あの時...あの列車で何が起きていたのか?
よくある日常の通勤電車...のはずだった
それはゴールデンウィーク直前の月曜日だった。
運転士は朝6時に出勤した。
この運転士は当時23歳、運転士になってまだ11か月だった。
午前9時、宝塚駅。数本の運行を終えた彼は、尼崎行きの快速列車の運転席に乗り込んだ。
兵庫県・尼崎と京都の福知山とをつなぐJR福知山線。
宝塚はその途中にある。
西宮で理髪店を営む西野節香さんもこの列車に乗っていた。
夫の道春さんとは結婚して38年。
定休日のこの日、節香さんは大阪で買い物をするためこの列車に乗っていた。
そして、7両編成の4両目には大学生の岸本遼太さんが乗っていた。
実はこの日、遼太さんは22歳の誕生日。
そして、いつものように京都にある大学に行くため、この列車を利用した。
それぞれの目的地で、列車に乗り込んだ人たち。
この時、乗客は気がついていなかったが...わずかだが予定時刻より遅れていた。
この時点で35秒の遅れ...それが、運命を大きく変えてしまう。
午前9時13分39秒、快速列車は通過駅である北伊丹駅を122kmで通過。
この時、遅れは1秒ほど解消していた。
実は遅れが生じた場合、可能な限り正常なダイヤに戻す"回復運転"というものがある。
その方法は、停車時間を切り詰めたり、より加速したり、
ブレーキのタイミングなどで時間の短縮を図るというもの。
これらは運転技術が必要となり、先輩運転士などから受け継がれていたものだった。
少しでも遅れを取り戻さなければ...運転士はそう強く思っていたのかもしれない。
ミスは許されない日勤教育の恐怖
2000年、高校卒業後に18歳でJR西日本に入社した彼は運輸管理係・車掌を経て
2004年5月、念願叶って運転士となった。
彼の夢は新幹線の運転士。
その為、休日でも運転技術の向上に励んでいたという。
そんな彼だったが、運転士になってわずか3週間、
事故の10か月ほど前にある出来事が...
この日の運行中にある駅でブレーキ操作を誤り、
停止位置から、なんと100mもはみ出してしまったのだ。
これによりダイヤに8分もの遅れを生じさせてしまった。
このミスにより、運転士は上司から1時間半にも及ぶ執拗な事情聴取を受けた。
JR西日本には乗務員を再教育する目的で課した「日勤教育」というプログラムがある。
旧国鉄時代からある社内教育で、事故原因の分析や自覚、職務の重要性などを理解させ
2度とミスを起こさないようにするための教育システムだった。
だが...JR西日本、特に大阪・尼崎の当時の日勤教育は厳しい懲罰として知られていた。
日勤教育となった者は乗務することはできず別メニューの勤務となる。
その主な内容は、事故の顛末書や反省文の作成だった。
顛末書や反省文を書きながらミスを犯した自分を責め続ける毎日。
さらに、日勤教育は他の乗務員に見える場所でまるで晒し者のように行われていた。
結局、13日間にも及んだ彼の日勤教育は終了。
そして運転士は、今度ミスをしたら運転士を辞めなければならない...そう覚悟するようになった。
なぜそこまでミスに厳しかったのか?
もちろんその指導は、彼だけに限った話ではない。
ある運転士は、日勤教育と称しトイレ掃除や草むしりを延々やらされたり、
またある運転士は、一日中経営理念についてのレポートや
就業規則の丸写しなどをさせられ、今で言うパワハラが日常的だったという。
仰天ニュースは、当時、日勤教育を受けた事のある
JR西日本の元運転士に話を聞くことができた。
元運転士は1か月間もの長い間、日勤教育を受けた。
だんだん追い詰められ4日・5日目には、弁当が半分食べられなくなってしまったという。
さらし者にされ、完全なイジメだったと語る。
ミスに対して厳しいペナルティを課していたJR西日本。
とりわけ運行ダイヤに関しては異常なほど厳しかった。
それにはある背景があった。
福知山線脱線事故に詳しい、関西大学・安部誠治教授によると
JR西日本は、東日本や東海に比べると経営基盤が弱いのだという。
JR西日本は発足当時、私鉄各線との競合が激しく、
経営面で劣勢に立たされていた。
特に福知山線は私鉄と重複する路線でもあり、JR西日本にとって重要な場所だった。
そんな私鉄に勝つために取った手段...それが徹底的な利便性の追求だった。
都市と都市を結ぶ路線を増発し、
高速化してスピードアップと正確な運行時間を掲げることで乗客を取り込む計画を立てた。
さらにスピード競争に勝つ為、秒単位で所要時間短縮を図っていた。
実は、列車が走っている時にかかるじかんと、駅などでの停車時間、
さらに何かあった時用に少し余裕を持たせている時間を足したものを、
『所要時間』として計算するのだが...
当時JR西日本が掲げていたのは、何かあった時のミスを取り戻す時間を設けず、
ミスをさせないという方針だった。
安部教授によると、理論上は所要時間を詰めても大丈夫だとJR西日本は判断し、
ミスというのは本人が未熟だからと、厳しくそのことを自覚させて指導すれば
次からミスを犯さないだろうという指導をしてきたのだという。
実際、この当時、宝塚~尼崎間の運転時間が5年間で50秒も短縮している。
そのため駆け込み乗車などがあれば、
その遅れを運転士自身が取り戻さなければならなかった。
もうミスは許されない...追い込まれた運転士
事故が起きたこの日、彼はそんな状況で追い込まれていたのかもしれない。
そして、尼崎の手前の伊丹駅直前で事件が。
それは非常ブレーキを促す警告音。
やっとの思いで伊丹駅に停止したのだが...またも操作を誤り、停止位置から
72mもオーバーしてしまった。
停止位置を戻す為、遅れは1分8秒に増えてしまった。
この大きな運転ミスにより電車を降りた人もいたが、
西野節香さんや岸本遼太さんはそのまま乗車。
午前9時16分10秒、
遅れは1分20秒となり伊丹駅を出発。
大幅な遅れとオーバーラン...重大なミスだった。
そして運転士は平常心を失っていく。
午前9時16分45秒...彼が連絡したのは最後尾にいる車掌だった。
車掌は列車の遅れやミスなどがあった場合、指令員への連絡を行っている。
そして気が動転していた運転士は、車掌にオーバーランの虚偽報告を求めた。
しかしその直後、車掌室のドアをたたく音が。
列車の遅れに対する乗客のクレームがあったのだ。
その応対のため車掌は運転士との電話を切った。
運転士はさらに追い込まれる...
午前9時17分38秒、猪名寺駅を通過、
回復運転を試みたのか列車はどんどんと速度を上げ、125kmに及んでいる。
運転に集中できない運転士はブレーキをかけ始めるポイントを逃してしまった。
事故調査報告書によると、「運転士は車掌が指令員にどう報告するのかに
特段に注意を払っていたことや日勤教育を懸念し言い訳を考えていた事から
注意がそれたものと考えられる」とある。
そして、列車のスピードがいつもより速い事に乗客が気付き始めたその直後!
列車に激しい揺れが発生し、一瞬にして車内に緊張が走った。
ブレーキが遅れ、起きてしまった大惨事
そして、午前9時18分。
急カーブに時速116kmで進入。運転士は慌ててブレーキをかけた。
しかし、16秒遅かった...列車はカーブを曲がりきれず、線路わきのマンションに激突。
特にひどかったのが1両目と2両目。
1両目は脱線した後、マンションの1階部分にある駐車場に突っ込んだ。
2両目は、マンションの壁面に激突。
列車は「くの字」に折れ曲がり、そこに3両目が激突した。
マンションの駐車場部分に突っ込んだ1両目の乗客は前方に飛ばされ
折り重なった状態だった。
電気は消え真っ暗だったが...奇跡的に助かった人もいた。
生存者の女性は乗っていた列車が事故を起こしたことはすぐにわかったという。
そんな彼女の身体の下に何人もの乗客が折り重なっていた。
周りを見渡すとそこにいるのは全く動かない人たち。
そして鉄の焦げた匂いとガソリンの匂いが車両内に充満していた。
マンションの駐車場部分に激突したため、車を破壊しガソリンが漏れていたのだ。
もし引火したら大惨事となる...この時、彼女の他に意識があったのは数人だった。
すると...マンション近くにいた作業員が救助に駆け付け、車両の出口を知らせてくれた。
4両目に乗っていた京都の大学に通う岸本さんも、
事故の衝撃で首をねんざしたが命に別状はなかった。
一方...西野節香さんの夫・道晴さんと息子・勝善さんはテレビでこの事故を知った。
道晴さんは急いで妻に電話を掛けたが...2度と繋がることはなかった。
西野節香さんはこの事故で帰らぬ人となってしまった。
生存者を苦しめる事故の爪痕
節香さんをはじめとする乗客と運転士1人を含めた死者107人を出した脱線事故。
この事故を受けすぐに航空・事故調査委員会が調査を開始。
しかしその後も事故の爪痕が生存者たちを苦しめることになる。
それは...PTSD。心的外傷後ストレス障害。
強烈なショック体験や強いストレスが、心の傷となり、
ストレス障害を引き起こす精神的な後遺症。
電車に乗る事はもちろん、どこかで鳴った急ブレーキの音を聞くだけでパニックになる。
突然、事故の体験がフラッシュバックする事などもあるという。
4両目で事故にあった岸本さんもその1人だった。
そして、次第にこんな事を考えるようになった。
大勢の人たちが亡くなった中、なぜ自分は生き残ったのか?常にその事が頭を離れない。
岸本さんが苦しんでいたものは『サバイバーズ・ギルト』という心の病だった。
生存者罪悪感とも呼ばれ、大災害や大事故の生存者が自分の生還に対し罪悪感を抱く。
自分の幸せは他者の不幸の上に成り立っていると感じ、自分の人生に何の意味があるのか?と思い悩んでしまうという。
実はこの事故でも、生存者の多くがサバイバーズ・ギルトを発症していたという。
そして、岸本さんはこの症状によって事故から3年半後、自ら命を絶ってしまった。
事故調査委員会の調査の結果、原因は運転士のブレーキ操作のミスとしながらも、
その背景にある、JR西日本の体質について言及。
国もその指導の在り方に疑問を呈し、改善を要求した。
この件でJR西日本の歴代の社長4人が起訴されたが罪に問われることはなかった。
そして、余裕のないダイヤについても改善。
更に、急なカーブに対してはATS(自動列車停止装置)を設置。
痛ましい事故が起きた現場は、関係者が犠牲者を弔う「祈りの杜」となった。
JR西日本は事故をきっかけにスピードから安全第一へとシフトチェンジした。
107人の死者を出し、さらに生存者、被害者家族を苦しめ続けるJR福知山線脱線事故。
2度と起こしてはならない大惨事...この悲劇を忘れてはならない。