コラム COLUMN

くにくにコラム

Vol.15 最終回、永遠のライバル、国芳と国貞

2016/05/31

幕末に人気を二分した歌川国芳と国貞。2人は同じ10代で初代歌川豊国に入門しますが、売れっ子になるまでの道のりは全く違っていました。

渡し場の株を持つ材木問屋の息子という裕福な商人の生まれだった国貞は、豊国の覚えめでたくデビューもスムーズ。以後も師匠が得意とした役者絵や美人画のジャンルで安定的かつ絶対的な人気を得ていきます。それに対して染物屋の息子で素行も芳しくなかった(?)国芳は、どうやら師匠のサポートを受けることができず、30歳過ぎまで鳴かず飛ばず。長い下積み生活の末、独自の武者絵を開拓し「水滸伝シリーズ」で一気に世に躍り出ました。

生前の自画像は後姿ばかりだった国芳。亡くなってからお弟子さんが描いた顔を見ると……、けっこうステキなオジサマでした
歌川芳富《一勇斎国芳》(死絵)
万延2/文久元(1861)年
William Sturgis Bigelow Collection, 11.37316
Photograph © Museum of Fine Arts, Boston

そんな国芳は、11歳年上の兄弟子・国貞を若い時から意識していた模様。下積み時代、芸者と親しく話す羽振りの良い国貞を見て、「彼を追い越せば、生活も楽になる」と大いに奮起したと語っています。また「先生扱い」されることを嫌った国芳が、「先生ていうナアネ、ソラあすこの縁に居る被布を着た人サ」と国貞を差して言ったという話もあり、国貞へのライバル心を隠しませんでした。

幼い鬼若丸(後の牛若丸)のバケモノ緋鯉退治。画面いっぱいに描かれた巨大魚と少年の構図がダイナミック!
歌川国芳《鬼若丸と大緋鯉》
弘化2(1845)年頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.41063a-c
Photograph © Museum of Fine Arts, Boston

対する国貞は、品行方正、温厚な性格だったと言われていますが、「葭(よし=国芳)がはびこり、渡し場(渡し場の株を持つ国貞)の邪魔になり」と落首が出まわるほどの国芳の追い上げに、内心穏やかではなかったはず。

国貞は還暦を機に剃髪したので僧体。浮世絵師とは思えない、真面目で格式ばった印象です
二代目歌川国貞《豊国院貞匠画僊居士》《香蝶楼豊国肖像》(死絵)
文久4/元治元(1864)年
Asiatic Curator’s Fund, 53.450
Photograph © Museum of Fine Arts, Boston

国芳のことをいつまでたっても、「よし」と呼んで弟分扱いしたり(こう呼ばれることを国芳はことのほか嫌っていました)、1844(弘化元)年、59歳の時に突然師匠・豊国の名を襲名したのも、「我こそは歌川派No.1」と、あらためて世に知らしめ、国芳ら他の歌川一門との格の違いを見せつける意図があったのかもしれません。

吉原の花魁たちの華やかな道行姿。簪から打掛、お付きの少女のファッションまで、すべてがゴージャスです
歌川国貞《「江戸町壱丁目 扇屋内 花扇」 「角町 大黒屋内 大淀」 「角町 大黒屋内 三輪山」》
天保前期(1830-39)
Nellie Parney Carter Collection—Bequest of Nellie Parney Carter, 34.424a-c
Photograph © Museum of Fine Arts, Boston

永遠のライバルだった国芳と国貞。そんな2人の作品が、死後150年以上たってから、仲良く展覧会場で並ぶとは思いもよらなかったことでしょう。

さて、このコラムも今日が最終回。会期もあとわずかとなりましたが、ぜひ展覧会を最後まで楽しんでくださいね。最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました!

<プラスワン情報>
ボストン美術館は、浮世絵以外の絵画作品も充実。下はもともとフェノロサのコレクションだった、曾我蕭白の作品です。

曾我蕭白《商山四皓図屏風》1768年頃、ボストン美術館

木谷節子 プロフィール

アートライター。現在「婦人公論」「SODA」「Bunkamura magazine」などでアート情報を執筆。
アートムックの執筆のほか、最近では美術講座の講師もつとめる。

BACKNUMBER