GALLERY 作品紹介
◆ 第3章 ◆
第2章 コードとモード エピローグ
古代以来の「記憶」のための肖像、そして「権力の顕示」のための肖像は、王侯貴族や高位聖職者のみが制作できた特権的なジャンルでした。しかし、ルネサンス以降のヨーロッパでは、社会の近代化にともなってブルジョワ階級が次第に台頭し、有力な商人や銀行家から、さらに下の階層まで、肖像のモデルの裾野が広がっていきます。こうした肖像は、古代より培われた上流階級の肖像表現のコード(決まった表現の仕方・表現上のルール)を踏襲しつつ、一方では各時代・地域・社会に特有のモード(流行)を反映しながら、じつに多様な展開を遂げました。
たとえば、衣服や装身具の描写は、「記憶」と「権力の顕示」のための肖像にも、ルネサンス以降のより幅広い階層の人々の肖像にも欠かせない表現コードでしたが、前者ではモデルの社会的地位や役割を伝え、その存在の永遠性を記念する機能を担ったのに対し、後者では時代のモードに即した衣服や装飾品が取り入れられ、モデルの人柄や個性、そして彼らの一瞬の生の輝きを伝える役割を果たしました。ルネサンスのヴェネツィア女性ならではの優雅なドレスや宝飾品の繊細な描写によって、モデルの魅力を際立たせたヴェロネーゼの傑作《美しきナーニ》は、その好例といえるでしょう。
本章では、ルネサンスから19世紀までのヨーロッパ各国の肖像作例を、男性、女性、子どもと家族などの主題別に紹介しながら、コードとモードが錯綜するなかでどのような肖像表現が展開されたのかを考察します。
たとえば、衣服や装身具の描写は、「記憶」と「権力の顕示」のための肖像にも、ルネサンス以降のより幅広い階層の人々の肖像にも欠かせない表現コードでしたが、前者ではモデルの社会的地位や役割を伝え、その存在の永遠性を記念する機能を担ったのに対し、後者では時代のモードに即した衣服や装飾品が取り入れられ、モデルの人柄や個性、そして彼らの一瞬の生の輝きを伝える役割を果たしました。ルネサンスのヴェネツィア女性ならではの優雅なドレスや宝飾品の繊細な描写によって、モデルの魅力を際立たせたヴェロネーゼの傑作《美しきナーニ》は、その好例といえるでしょう。
本章では、ルネサンスから19世紀までのヨーロッパ各国の肖像作例を、男性、女性、子どもと家族などの主題別に紹介しながら、コードとモードが錯綜するなかでどのような肖像表現が展開されたのかを考察します。
第3章 ◆ コードとモード
サンドロ・ボッティチェリと工房
《赤い縁なし帽をかぶった若い男性の肖像》
1480-1490年頃 油彩/板 57.5×38 cm
中世ヨーロッパでは、宗教的場面の片隅に寄進者を描き入れるかたちで肖像表現が展開されましたが、14世紀イタリアのフィレンツェに始まったルネサンスの時代には、人間性を尊重する文化のなかで独立した肖像画が誕生しました。当初は古代の肖像メダルにならい、モデルを完全なプロフィール(横顔)で描くのが一般的でしたが、15世紀後半には正面や斜めを向いた肖像が描かれるようになります。フィレンツェで活躍したボッティチェリとその工房が手がけた本作品でも、男性はやや斜めを向き、涼しげな眼差しをこちらに向けています。モデルは特定されていませんが、フィレンツェのメディチ家最盛期の当主ロレンツォ・イル・マニフィコの従兄弟であった、ロレンツォ・トルナブオーニ(1465-1497)とする説もあります。縁なし帽とカールした長い髪は、当時、フィレンツェの富裕階級の男性に特有の装いでした。
第3章 ◆ コードとモード
ヴェロネーゼ
《女性の肖像》、通称《美しきナーニ》
1560年頃 油彩/カンヴァス 119×103 cm
16世紀後半のヴェネツィアを代表する巨匠、ヴェロネーゼによる《女性の肖像》、通称《美しきナーニ》は、1914年にルーヴル美術館に所蔵されて以来、ルネサンスの肖像の最高傑作の一つとして、大切にされてきました。その鑑賞のポイントをご紹介します。
●《美しきナーニ》の名前の由来
この作品が歴史に浮上したのは19世紀のことで、それ以前の足跡は分かっていません。《美しきナーニ》の名が初めて用いられたのは、1870年のことです。この年、ロシア人の実業家で芸術愛好家でもあったサン・ドナート公アナトリー・デミドフが亡くなり、彼のコレクションがパリで競売にかけられましたが、その中にこの作品が含まれていました。デミドフは高名なコレクターであったため、美術史家エミール・ガリションがこの競売についていくつかの論文を執筆します。その際、ガリションは、17世紀の著述家マルコ・ボスキーニが1660年の著作のなかで言及した絵画を、この作品と結びつけました。ボスキーニは、ヴェネツィアの名門貴族であるナーニ家の邸宅で女性の肖像を目にしたと記しています。それがこの作品だと考えたガリションは、初めて「美しきナーニ」の名を用いました。以来、著述家たちはこの呼び名を使うようになり、この作品がナーニ家とは無関係であることが20世紀後半に判明してからも、親しみ深い通称として今日まで受け継がれています。
この作品が歴史に浮上したのは19世紀のことで、それ以前の足跡は分かっていません。《美しきナーニ》の名が初めて用いられたのは、1870年のことです。この年、ロシア人の実業家で芸術愛好家でもあったサン・ドナート公アナトリー・デミドフが亡くなり、彼のコレクションがパリで競売にかけられましたが、その中にこの作品が含まれていました。デミドフは高名なコレクターであったため、美術史家エミール・ガリションがこの競売についていくつかの論文を執筆します。その際、ガリションは、17世紀の著述家マルコ・ボスキーニが1660年の著作のなかで言及した絵画を、この作品と結びつけました。ボスキーニは、ヴェネツィアの名門貴族であるナーニ家の邸宅で女性の肖像を目にしたと記しています。それがこの作品だと考えたガリションは、初めて「美しきナーニ」の名を用いました。以来、著述家たちはこの呼び名を使うようになり、この作品がナーニ家とは無関係であることが20世紀後半に判明してからも、親しみ深い通称として今日まで受け継がれています。
●モデルは誰? 肖像? 理想的女性像?
ナーニ家とは関係がないとすれば、モデルは誰か。コルティジャーナ(高級娼婦)、貴族の女性、あるいは特定のモデルを持たない理想的女性像など、さまざまに議論されてきました。最も注目されてきたのは、ヴェネツィアの貴族マルカントニオ・バルバロの妻、ジュスティニアーナ・ジュスティニアーニとする説です。バルバロは、ヴェネツィアの北西に位置するマゼールに建てた別荘「ヴィラ・バルバロ」の屋内を飾るフレスコ画を、ヴェロネーゼに描かせました。その天井画に描かれたジュスティニアーナは、《美しきナーニ》 とよく似た青いドレスをまとっており、顔立ちや体格も似ています。しかし決定的な証拠に欠けるため、多くの研究者は《美しきナーニ》をジュスティニアーナというよりも、貴族の既婚女性の肖像とみなし、かつ、貴族の家庭の理想的な母親像の表現をそこに読み取ってきました。彼女の上質なビロードのドレス、真珠の首飾りなどの豪奢で優雅な装いと、左手の薬指にはめられた指輪が、この説を裏付けます。胸元を四角い形に大きく開けたドレスは、当時ヴェネツィアで流行していたスタイルで、未婚の女性は着用できませんでした。また、手を胸に当てるしぐさは、伴侶への忠実さを示すポーズと解釈されています。
ナーニ家とは関係がないとすれば、モデルは誰か。コルティジャーナ(高級娼婦)、貴族の女性、あるいは特定のモデルを持たない理想的女性像など、さまざまに議論されてきました。最も注目されてきたのは、ヴェネツィアの貴族マルカントニオ・バルバロの妻、ジュスティニアーナ・ジュスティニアーニとする説です。バルバロは、ヴェネツィアの北西に位置するマゼールに建てた別荘「ヴィラ・バルバロ」の屋内を飾るフレスコ画を、ヴェロネーゼに描かせました。その天井画に描かれたジュスティニアーナは、《美しきナーニ》 とよく似た青いドレスをまとっており、顔立ちや体格も似ています。しかし決定的な証拠に欠けるため、多くの研究者は《美しきナーニ》をジュスティニアーナというよりも、貴族の既婚女性の肖像とみなし、かつ、貴族の家庭の理想的な母親像の表現をそこに読み取ってきました。彼女の上質なビロードのドレス、真珠の首飾りなどの豪奢で優雅な装いと、左手の薬指にはめられた指輪が、この説を裏付けます。胸元を四角い形に大きく開けたドレスは、当時ヴェネツィアで流行していたスタイルで、未婚の女性は着用できませんでした。また、手を胸に当てるしぐさは、伴侶への忠実さを示すポーズと解釈されています。
●質感描写の極致
作者のヴェロネーゼ(1528-1588)は、ティツィアーノ(1488/90-1576)、ティントレット(1519-1594)と並んで、16世紀ヴェネツィア・ルネサンスの三大巨匠の一人に数えられます。素描派と呼ばれるフィレンツェの画家たちが明快なデッサンを重視したのに対し、色彩派と呼ばれるヴェネツィアの画家たちは豊かな色彩表現を得意とし、巧みな筆使いで絵具のマティエールを生かしながら、人の肌から布地、木製の家具、金属性の武具まで、さまざまな質感をじつに見事に描出しました。《美しきナーニ》にはこの持ち味が存分に発揮されています。バラ色がかった張りのある頬、潤いを帯びた瞳、まばゆい白さを誇る滑らかなデコルテ、ふっくらと柔らかそうな胸元、つやつやと光沢を帯びた青いビロードのドレス、枝葉模様の浮き織りがわずかな凹凸をなす袖の布地、ずっしりとした金のベルトや肩飾り、いまにも風に揺れそうな薄いヴェール。思わず絵肌に触れたくなるような繊細な質感描写は、この美しい女性の存在感と魅力をいっそう引き立てています。
作者のヴェロネーゼ(1528-1588)は、ティツィアーノ(1488/90-1576)、ティントレット(1519-1594)と並んで、16世紀ヴェネツィア・ルネサンスの三大巨匠の一人に数えられます。素描派と呼ばれるフィレンツェの画家たちが明快なデッサンを重視したのに対し、色彩派と呼ばれるヴェネツィアの画家たちは豊かな色彩表現を得意とし、巧みな筆使いで絵具のマティエールを生かしながら、人の肌から布地、木製の家具、金属性の武具まで、さまざまな質感をじつに見事に描出しました。《美しきナーニ》にはこの持ち味が存分に発揮されています。バラ色がかった張りのある頬、潤いを帯びた瞳、まばゆい白さを誇る滑らかなデコルテ、ふっくらと柔らかそうな胸元、つやつやと光沢を帯びた青いビロードのドレス、枝葉模様の浮き織りがわずかな凹凸をなす袖の布地、ずっしりとした金のベルトや肩飾り、いまにも風に揺れそうな薄いヴェール。思わず絵肌に触れたくなるような繊細な質感描写は、この美しい女性の存在感と魅力をいっそう引き立てています。
●神秘的な表情
《美しきナーニ》の表情は、しばしば「神秘的」と形容されてきました。その理由の一つは、視線の描き方です。絵を見る私たちは、どこに立っても、彼女と目を合わせることはできません。絵の外側のどこかをそっと見つめる彼女の瞳は、寂しさ、悲しみ、はにかみ、恥じらい、とまどい、憂い、優しさ、静かな喜びなど、さまざまに異なる感情を宿しているように見えます。もし彼女が貴族の妻や母の理想像として描かれたとすれば、見る者から視線をそらす描き方は、彼女の身分と役割にふさわしい慎み深さを表すためだったのかもしれません。
とはいえ、私たちは、肖像画を制作当時の意図や意味に沿って鑑賞するだけでなく、別の楽しみ方をすることもできます。描かれた人物に先入観なく対面し、時空を越えた会話を交わすことができるのは、現代に生きる私たちの特権です。ぜひ会場で《美しきナーニ》の謎めいたまなざしを感じるままに受けとめ、彼女との対話を楽しんでください。
《美しきナーニ》の表情は、しばしば「神秘的」と形容されてきました。その理由の一つは、視線の描き方です。絵を見る私たちは、どこに立っても、彼女と目を合わせることはできません。絵の外側のどこかをそっと見つめる彼女の瞳は、寂しさ、悲しみ、はにかみ、恥じらい、とまどい、憂い、優しさ、静かな喜びなど、さまざまに異なる感情を宿しているように見えます。もし彼女が貴族の妻や母の理想像として描かれたとすれば、見る者から視線をそらす描き方は、彼女の身分と役割にふさわしい慎み深さを表すためだったのかもしれません。
とはいえ、私たちは、肖像画を制作当時の意図や意味に沿って鑑賞するだけでなく、別の楽しみ方をすることもできます。描かれた人物に先入観なく対面し、時空を越えた会話を交わすことができるのは、現代に生きる私たちの特権です。ぜひ会場で《美しきナーニ》の謎めいたまなざしを感じるままに受けとめ、彼女との対話を楽しんでください。
第3章 ◆ コードとモード
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン
《ヴィーナスとキューピッド》
1657年頃 油彩/カンヴァス 118×90 cm
17世紀オランダの巨匠レンブラントは、聖書や神話を主題にした歴史画のほか、肖像画・自画像によって名声を博しました。この作品は一見、愛の女神ヴィーナスとキューピッドを描いた神話画に見えますが、ヴィーナスは、内縁の妻として後半生のレンブラントを支えたヘンドリッキェをモデルとして描かれ、またキューピッドも、おそらく彼らの娘のコルネリアがモデルと考えられています。最初の妻サスキアを1642年に亡くしたレンブラントは、息子ティトゥスの乳母ヘールチェを愛人としたのちに、家政婦として雇ったヘンドリッキェと真の愛情を育み、彼女の肖像画を何点も手がけました。ヴィーナスの優しげな微笑みは、ヘンドリッキェの穏やかな人柄をしのばせます。なお、本作は長年、レンブラントの弟子や工房による制作とされてきましたが、近年の研究によって見直され、レンブラントの手に帰されました。
第3章 ◆ コードとモード
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン
《エカチェリーナ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスキー伯爵夫人の肖像》
1796年 油彩/カンヴァス 80×66 cm
王妃マリー=アントワネットの肖像画家として名を馳せたヴィジェ・ル・ブランは、1789年に勃発したフランス革命を機に故国を離れ、ヨーロッパ各国で活躍しました。本作のモデルはロシアのスカヴロンスキー伯爵の妻で、美貌で知られたエカチェリーナ(1761-1829)です。ヴィジェ・ル・ブランは、伯爵が大使としてナポリに駐在していた1790年に夫妻と親交を結び、以来、夫人の肖像を何度も手がけました。本作の制作時、エカチェリーナは34歳でしたが、3年前に夫に先立たれ、若くして未亡人となっていました。白い首筋に豊かな巻き毛を垂らした彼女は、東洋風のターバンと青いショールで美しく装い、甘い眼差しを見る者に投げかけています。モデルの魅力を最大限に引き出すヴィジェ・ル・ブランの肖像画は、上流階級の女性たちの間で国際的に人気を博しました。
第3章 ◆ コードとモード
フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス
《第2代メングラーナ男爵、ルイス・マリア・デ・
シストゥエ・イ・マルティネスの肖像》
1791年 油彩/カンヴァス 117.5×86.3 cm
18世紀スペインの巨匠ゴヤは、宮廷画家として王侯貴族の肖像画を数多く手がけ、子どもの肖像画にも優れた技量を発揮しました。本作に描かれたルイス・マリア・デ・シストゥエ(1788-1842)は、スペイン王家に重用された貴族の家系に生まれ、長じてはナポレオンの支配に抵抗したスペイン独立戦争(1808-1814)で活躍しました。2歳8カ月のシストゥエの姿を描きとめた本作は、彼の唯一現存する肖像画です。深い青色の服に明るいピンク色の帯を締め、長い髪を垂らしたシストゥエは少女のようにも見えますが、脇に子犬を従えています。犬は伝統的に貴族階級の男性を示すモティーフでした。こちらを見据えるシストゥエの凜とした眼差しには、幼いながらも貴族の風格が感じられ、肖像画家としてのゴヤの卓越した手腕がうかがえます。
第3章 ◆ コードとモード
フランツ・クサファー・メッサーシュミット
《性格表現の頭像》
1771-1783年の間 鉛と錫の合金 38.7×23×23 cm
フランツ・クサファー・メッサーシュミットは、ウィーンのアカデミーで教授を務め、伝統的な肖像彫刻を制作していましたが、次第に精神を病み、1774年に離職します。そして1777年に移り住んだブラスティラヴァで1783年に没するまで、自分をモデルにしながら、さまざまな表情の奇妙な頭部像を制作しました。それらは生前には公開されず、没後にアトリエで69点が発見され、「性格表現の頭像」と名付けられました。そのうちの1点である本作は、ぎゅっと目をつぶり、への字に曲げた口をテープでとめて、耐え忍ぶような表情をしています。わずかに残る同時代の証言によれば、妄想に悩まされた彫刻家は、顔と身体の一部をつまんでしかめっ面をし、自身を苦しめる病を制御しようとしていたそうです。それゆえ「性格表現の頭像」の制作は治療のためであったと考えられますが、より広い文脈では、顔立ちと性格の相関関係を考察した近代観相学の発展とも結び付けられます。