日本でも絶大な人気を誇るアルフォンス・ミュシャ(現地読みでは「ムハ」)の展覧会はこれまでも数多く開かれてきましたが、ミュシャ人気を支えているのはなんといっても数々の独創的なポスターや、美人画と花鳥画を合わせたような華やかなカラーリトグラフです(いわゆる「装飾パネル」)。つまりグラフィック・アーティストとしてのミュシャですが、1895年の新春公演のためパリ中に貼り出されたサラ・ベルナールのためのポスター《ジスモンダ》で、彼が彗星のようにデビューしたことはよく知られています。それまでは書物の挿絵のような地味な仕事をしていたミュシャがほとんどなんの前触れもなく《ジスモンダ》の華麗なミュシャに変身したのはある意味では謎ですが、以後、祖国に帰るまでのおよそ25年間、ミュシャはパリのアートシーンに君臨します。
ミュシャの芸術はアール・ヌーヴォーを抜きにしては語れず、アール・ヌーヴォーはミュシャを抜きにしては語れません。「ミュシャ様式」という言葉は装飾性豊かな彼個人の様式を指すと同時に、アール・ヌーヴォーの代名詞のようにも使われますが、本展では「ミュシャ」と聞いた時、誰もが思い浮べるようなポスター、リトグラフの名作に加え、紙ではなくシルクサテンに刷った本邦初公開の《四芸術》シリーズの他、ロンドンのミュシャ財団秘蔵の極めて質の高い作品が多数展示されます。
ミュシャにはグラフィック・アーティストとしての他、油彩画家としての顔もあります。ミュンヘンの美術アカデミーで油彩画の本格的な修業を積んだミュシャは、グラフィック・アーティストとして成功した後も画家としての野心を捨てることなく、油彩画を描き続けました。その最大の、最終的な成果が壁画的なスケールの大画面から成る《スラヴ叙事詩》ですが、油彩画は版画と違い「1点もの」であるため、これまでのミュシャ展でも散発的、限定的に紹介されてきた感はあります。今回は自画像や家族の肖像をはじめ、「画家」としてのミュシャにも焦点を当て、およそ30点の油彩が出品されます。
ミュシャにはこのほか、シェイクスピア劇などのための舞台衣裳・装置、アクセサリー、キャンディーボックスなどのデザイナーとしての顔、作品の数は限られていますが彫刻家としての顔、挿絵画家としての顔、あるいは写真家としての顔(彼の交友関係や私生活の記録として、またとりわけ《スラヴ叙事詩》の取材メモとしても興味深いものです)など、様々な顔があります。本展はこうしたマルチタレント的なミュシャの全貌を明らかにしていますが、これまでのミュシャ展ではとかくアール・ヌーヴォーの、ベル・エポックのミュシャに焦点が合い過ぎている感がありました。ロンドンのミュシャ財団からの提案もあり、本展ではパリ時代のミュシャのみならず、祖国に帰ってからの、あるいはチェコ人としての彼の生涯と思想にも焦点を当て、全体を6章で構成しました。
ミュシャには「アール・ヌーヴォーのプリンス」、「ベル・エポックの寵児」、「世紀末のサクセス・ストーリー」といったイメージがつきまとい、それはそれで間違いありませんが、同時に彼は彼の出自であるスラヴ民族の歴史と運命に深い思いを抱く熱烈なナショナリストでした。パリでの華やかな成功と名声に甘んじることなく、第一次大戦の勃発(1914年)とほぼ時を同じくして祖国に帰り、長らくハプスブルク帝国の支配下にあった祖国の復興に尽くし、貧しく恵まれない人々のためのポスターや、新生チェコの切手、紙幣などのデザインを(ノーギャラで)引き受けたのもその表れでした。本展の副題「パリの夢 モラヴィアの祈り」にもそれは反映していますが、ミュシャにはまたアール・ヌーヴォー風の彼の作品からは想像しにくい世紀末の象徴主義、これとも関係の深い神秘的、オカルト的なものへの関心、パリとプラハのフリーメイソンのメンバーとしての顔など、いくつかの「知られざるミュシャ」も存在します。
「ミュシャマニア」という言葉が生まれるほどのミュシャの絶大な人気が一過性のものでなく、今なお健在で、欧米や日本ばかりでなく、例えば最近台湾でも本格的なミュシャ展が開催されるなど、その人気、注目度が一層の広がりを見せているのも、彼の人と芸術のこうした幅広さ、奥行にあると言えるでしょう。ミュシャ財団から厳選された240点を超える出品作で構成される本展は、人間およびアーティストとしてのミュシャの全体像をご覧いただく貴重な機会となることでしょう。