ここに、1枚の、古い新聞がある。
日付は、2002年10月19日。
今から、15年前のものだ。
その見出しには、こう書かれている。
「良いコメントもっと引き出せ!!」
記事を読めば、
「アナウンサーはプロレスに限らず、
自分の担当するジャンルをもっと勉強しなくっちゃいけないよ。」
そして、最後には、
「良いコメントは君たちが引き出すのだ。
分かったか、菅谷(日テレ)!
これからもビシビシ行くぞ!
No Fear!!」
(2002年10月19日土曜日 デイリースポーツ)
もう、お分かりかと思う。
著者は、プロレスラー高山善廣選手だ。
当時、私は、高山番として、
高山選手のインタビューと言えば、
私が担当することになっていた。
でも、
その雰囲気、コメント力に圧倒され、
ただただ、マイクを差し出すだけ。
何か、言おうとすれば、
「(質問のタイミングが)遅い!」と言われ、
かといって、意を決して聞いてみれば、
「はぁ?」という表情で、にらまれる。
だから、この新聞を読んだ時には、
自分自身、悔しかったし、恥ずかしかった。
以来、
この新聞を、つねに、自分の机の引き出しに入れ、
いつでも、見られるようにして、
心に刻んできた。
アナウンサーはもっと勉強しろ...
そんな私を、
何とか、引き揚げようとしてくれたのだろう。
高山選手は、翌2003年の春、
当時、高山選手がチャンピオンとして君臨していたタイトル、
NWFの、ノアマット限定コミッショナーに、私を指名してくれた。
今でも、忘れはしない。
2003年4月13日、有明コロシアム。
白いタキシード姿で、リングに登り、
タイトルマッチ宣言を読み、
高山選手から、ベルトを預かる。
そのまま、四方に、そのベルトを披露して、
実況席に向かい、試合の実況。
終わって、改めて、リングに登り、
勝った高山選手にベルトを渡す。
その時、一言、高山選手は、こう呟いた。
「菅谷さんが、ベルトを巻いてくれ」
高山選手の後ろに回り、
手にしていたベルトを、その大きな体に巻き、
ベルトを締め、横に立つ。
そして、二人で、あの言葉を叫んだ...
「No Fear!!」
今、高山選手は、
5月のリング上でけがをして、病床にいる。
頸髄完全損傷のため、
首から下が動かない状況のなか、
厳しいリハビリ、けがと戦っているという。
(高山選手のHPより)
今、私は、高山選手に、あえて言いたい。
「良いコメントは僕たちが引き出すのだ。
その時まで、勉強し続けて、待っているのだ。
だから、必ず。
再び。
いくぞ、No Fear!!」