12月27日 豊田順子

私的『箱根駅伝放送・今昔物語』                             


「豊田は読みやすい字を書くから、箱根駅伝で取り合いになるな。」
これ、私がアナウンス部に配属されて早々に言われた褒め言葉。
時は平成2年、1990年。
「IT革命」が起きるずっと、ずっと前のことである・・・。


日本テレビが、技術的に不可能とも言われていた「東京箱根間往復大学駅伝競走」中継放送に挑戦して
5回目となる、「第67回大会」。
いわゆる「ザ・アナログ時代」で、アナウンス部にあったテレビやラジカセ、コピー機以外の機材は、
1台のワードプロセッサー(文書作成しかできないコンピューターのようなものです!)・・・
という時代に、私は初めて箱根駅伝を担当した。


15人のアナウンサーが、担当校を決めて出場15校(当時)すべてに取材に行き、ワープロで作成した
アンケート用紙に、それぞれが"手書き"で取材内容をまとめ、それを持ち寄って、これまた"手書き"で
各ポジションの実況用資料に作りかえるという地道な作業を進めていく。
取材中は速記のようにメモを取るので、取材者本人が「俺、自分の字が読めない・・・(苦笑)」
なんてこともしばしば。
「提出資料の字もわからんぞ~!」という、そもそもの問題点も浮かび上がる。
選手がもつ公式記録の確認は、何十冊もの陸上専門雑誌のバックナンバーを探しまくる。
先輩アナから取材内容のセンスの良し悪しを指摘されると、より良いものに完成させたくて何度も何度も学校や寮の固定電話に連絡を入れるのだが、なかなかマネージャーにたどり着かない。
本番直前まで厚紙に表を作り、そこに選手情報を書き込んでいく作業の中で、字の大きさや色、
太さを変えて実況しやすいように書き入れたつもりでも、先輩からは、
「この書き方、好みじゃない。」とか、「字が曲がってない?」とか、
アナウンサー特有のワガママ(!?)なダメ出しを食らうことも。
傍でコーヒーなどこぼそうものなら、「やり直しぃ~!」の容赦ない言葉が飛んでくる。
「明るい下積み、明るい下積み、がんばろう~!」と励まし合う年末だった。


12月31日から1月1日への年越しの瞬間は、もちろん部内デスクの前。
「正月に仕事ができるというのは、とても名誉なこと」という価値観の下、
「明けましておめでとうございます!今年の初仕事、よろしくお願います!」と、
背筋を伸ばして年始の挨拶を交わしたっけ。
全ては、ランナー達の素晴らしい走りを伝える"良い放送"のために・・・。


次のお正月を迎えると、令和最初の第96回大会が行われる。
あれから30年・・・「箱根駅伝」は今や日本のお正月に欠かせない超ビッグイベントとなり、私たちの仕事環境はすっかり様変わりした。
しかし、時代や社会状況は変わっても、私たちアナウンサーの思いはしっかりと受け継がれている。