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ザ!鉄腕!DASH!!

日曜よる7時00分~7時58分 放送

DASH村 ~福島 DASH村~

2021.08.29 公開

福島県浪江町の山間にあるDASH村。その始まりは2000年初夏。
長年人が住まなくなっていた敷地面積1万2000坪の荒地を、自らの手で耕して作った小さな村。
生活に必要なものを何でも作り、仲間達と過ごした、当たり前の日常。
それが2011年3月11日のあの日、一瞬で奪われてしまった。
この日を最後にDASH村があるこの地域には、原発事故の影響で帰る事も近づく事もできず、今でも村の仲間達は故郷に帰れないまま。
その震災から今年で10年…TOKIOと仲間達の想いがこもった、あの場所へ、再び…。


今年7月下旬。「番組の企画という意識とは別の大事な場所。いろいろ確かめなあかんね。僕らの場所やから」とその想いを語る城島と、TOKIOと共に今年米作りをしてる後輩・岸とシンタローがDASH村へ。
岸とシンタローは、震災当時は共に10代。もちろんDASH村に行くのはこの日が初めて…。
「TOKIOさんが一から学んだDASH村に向かっている」


3人が最初に尋ねたのは、TOKIOが来られない間も村の管理をし続けてくれた三瓶宝次さん。
自治体にも許可をとり、10年が経ち、放射線量は大幅に減ったものの震災前と比べると数値は高いため、防護服を着用し、安全を考慮して滞在時間は2時間。
「どう変わったか2人にも見てもらいたい。DASH村の歴史も含めて」と城島。


DASH村へと入る門を開け、中へと入っていく。
「DASH村だ!テレビで見てた所ですよ」「これ全部作ったんですもんね…」と初めてやって来た岸とシンタロー。
東京ドーム1個分の敷地には、母屋をはじめ、TOKIOの想いがこもった水車や井戸など様々なものが。
震災から10年…DASH村の今は、どうなっているのか?


最初に3人がやって来たのは、母屋。TOKIOが400年以上続く、伝統技術を学んだ場所。
家の土台は釘を一切使わない木の組み方で固め、屋根は世界遺産白川郷でも知られる茅葺を。
100人を超える地元の人々の助けを借りながら、江戸時代の日本家屋を再生させた。
一つ屋根の下で、節分には豆まきをしたり、縄で草履など様々な物を作った。
しかし、10年使えずにいたら…「これは傷んだなあ。茅葺の屋根が自慢だったけどな」
戸の開け閉めや人の出入りがなかったため、室内の空気が循環せず、茅に湿気が溜まり、腐敗が進んでしまった。


除染が済んでいないため、触れる事も中に入る事もできないが、外から覗いてみると…
「かまどがあって、囲炉裏があって。ここで火を焚いてみんなで飯食ったなあ」と当時の想い出がよみがえる。
10年前と変わらないものもある一方で、自分達で焼いた陶器を並べた食器棚が倒れていた。
地震の揺れでは倒れなかったが、野生のイノシシやサルなどが住み着き、倒したか?
「色々な想い出が詰まってるんですね」「メンバーみんなで作ったなんてすごいね」と岸とシンタロー。


続いて、TOKIOが農業を学んだ原点の畑へ。
10年前まではキュウリやスイカなど毎年30種類の作物を育てていたが、荒れ果ててしまい、畑の面影はない。
「何も無いところを耕して、鍬一つでっていうところから始まった」と城島。
TOKIOは今や若手に教える立場だが、21年前は鍬の使い方もわからなかった。
三瓶明雄さんが、道具の使い方から畑の耕し方、種の撒き方などすべてイチから教えてくれた。
TOKIOが20年愛し続ける村の味で、後輩達にも繋がっている福島の味孝子さんの作る漬物もここで教わった。


そして、20年繋いできたスタート地点の田んぼへ。しかし…「田んぼがないやん。田んぼの跡形も名残もない」
木が小さな林のように生い茂り、その跡形も名残も見えないこの田んぼこそが、明雄さんと米作りを始めた場所。「20年前の米がここから生まれた」
その始まりは20年前。不器用な城島に明雄さんはいつも丁寧に教えてくれた。
田植えの時は、近隣の方々が当たり前のように手を貸してくれた。
害虫、いもち病、天候など、あらゆる敵と戦いながら、秋に収穫を迎え、その実りを喜び合った。


その種は、震災直後、DASH村から避難する時も、福島に行けなかった去年も、20年間にわたって繋がれてきた。
こうして、繋いで来たのは種だけでなく…
「よく周りの方を見ると田んぼの斜面はありますね」とシンタロー。
「それが分かるって、田んぼ作った人しか分からん。嬉しいわ、受け継がれてる」と城島。
その斜面(土手)は、かつて作業の合間に皆で腰かけておにぎりなどを食べていたところ。


続いて、TOKIOの大切な仲間がいた場所へ。「牧草地やね、ヤギと羊達の」
ヤギの八木橋は『雨に濡れずにどこまでいけるか?』という企画で出会ったのがきっかけで村にやって来た。
そして、仲間といえば、柴犬の北登。
震災でDASH村に戻れなくなった後も、他の場所へ引き取られ、伸び伸びと過ごした。


続いて、TOKIOのものづくりの厳しさを知った原点へ。「村の歴史でかなり大変だった歴史の一つ。炭窯」
炭といえば、村の暮らしに欠かせない燃料。これを窯から全て自分達の手で作り上げた。
ものづくりの厳しさ、楽しさを教えてくれたその炭窯も、10年の歳月で荒れて崩れてしまっていた。
そして、窯といえばもう一つ。それが登り窯。
茶碗や皿・湯のみなどを作る登り窯も、およそ3000個の耐火煉瓦を積んで自分達で作り上げた。
そんな登り窯も崩れてしまっていた。


「ここがなかったら島でこうしようと思わなかった」という城島に、
「これが今のDASH島の反射炉の基ですか」とシンタロー。
DASH村に行けなくなった5年後、登り窯を作った技術を生かして作ったのが、DASH島の反射炉。
DASH村の登り窯は朽ちてしまったが、その技術や経験は今も生きている。
「色んな人にお世話になって、教えてもらって築き上げた、僕らの心の財産」
城島は改めて思った。明雄さんや福島の方々に教えてもらった事、それは村に戻れなかったとしても生き続け、次の世代へと繋がれていたのだと。


水車小屋もまた繋がれていたものの一つ。
200㎏もの重さの水車を回す動力は、里山の湧き水。その湧き水を水車に流す水路は、DASH島の水路づくりに生かされた。
その水路の力を使って設置した臼で蕎麦を挽いた。今はもう回る事もないが…
「新宿でも石臼でそば挽いてた」と岸。
去年、新宿のTOKIOのベース基地に作った風車は、福島DASH村で水車を作った経験と技術を応用し、大都会の風の力を利用した。


そして、ビニールハウスの南国ハウス。ここで作ったのが、南国のフルーツのバナナ。
フィリピンなどの熱帯地域で育つ作物、日本で栽培してるのは沖縄など温かい地域がほとんど。
そこで、寒い東北でも、甘いバナナが食べたい!と挑んだ。
南国ハウスを見て、岸が気づいた。「新宿でもやってるマッシュルーム作りの発想は、この南国ハウスから来てた」
福島DASH村に行けなくなった10年後の2021年。新宿で挑んだジャンボマッシュルームづくり。
それを支えたのは、福島でバナナを育てた経験と技術だった。


そして、気になるのは、ビニールハウスを貫くように大きく伸びた木。
「マンゴーの木?マンゴーの木がこんなに成長してたら感動」と城島。
マンゴーとコーヒーの収穫前に震災が来たため、途中で終わってしまっていた。
「DASH島でコーヒー育てたいですね」とシンタロー、
「マンゴーは新宿DASHでやりたい。マンゴー大好きなんで」と岸。
震災でやりかけになってしまった計画は、後輩達が!


そしてもう一つ、城島が見せたい作物が。「お茶だ!茶畑まだ生きてる」
DASH村でお茶を作って以来、すっかりお茶づくりに目覚めた城島は、未だに色々なお茶を作っている。
茶畑がないDASH島では、キノコミックス茶、タラノキ茶、蜂の巣茶など、DASH村の経験を生かし、島にあるものだけで様々なお茶を作って来た。が、その味は城島以外には不評。
「DASH島にお茶の技術が繋がってるわ」という城島だが、
「それはでも、村で学んだお茶とはまた違う…」と、実際に島で作ったお茶を飲んだシンタロー。


そして、城島が最も心配だった相棒とも言える存在が…「桜、時期的に咲いてないけど」
出会いは、2000年の春。TOKIOが来る、ずっと前から村でひとり生き続けていたサトザクラ。
樹齢は50~60年で、人間でいえば80歳を超える老木。すでに花を咲かせる力は残っていなかった。
そこで城島自ら、DASH村の先輩を枯らせまいと、土を掘り返し、根を消毒。
その想いに答えるよう、毎年花を咲かせてきた。
しかし、寿命は確実に近づいていた。木の中はスポンジのように柔らかくスカスカで、枝にもカビが。
すでに満身創痍。それでも、DASH村のシンボルとして、TOKIOの作業を誰よりも近くで見守ってきた。


最後に見た桜は、2010年。「立派に立ってるね。村を守ってた感じがする、この桜が」
10年で、かつてあった太い幹は失われたが、代わりに新たな枝が力強く成長していた。
おそらくTOKIOがDASH村に来れなくなってからも、誰もいない村で毎年春には、懸命に花を咲かせ、せめてもう一度みんなに会えるのを待っていた。そんな桜の生き様を見て…
「DASH村に来られないから、勝手に時が止まってると思ってたけど、全然そんな事なかった。
やっぱり僕らは走り続けてなんぼ」と城島。


そして城島が、この日後輩を連れてきて伝えたかった事が…。
「震災で来れなくなったけど、教えてもらったここの技術や知恵は終わってるわけでなくて、色んな場所で繋がってる」
TOKIOがDASH村で学んだ技術や経験は、DASH村に戻れなくても生き続け、それは次の世代だけでなく、DASH村がきっかけで新たな道に進んだ人達が全国に…。
バトンを繋いでずっと走り続けてきたTOKIO。そして、そのバトンを受け継いで繋げていく後輩達。
「まだバトンを渡す気はないけどね、一緒にそれぞれの分野で走り続けるのが大事」と城島。
想いは受け継がれ、生き続ける。

 

【DASH村 特設サイト】

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