2014年12月21日 放送内容DASH島 無人島を開拓できるか!?

日々、寒さ増してゆく無人島で、
長瀬待望の果物“ムベ"が、実りの時を迎えていた。
それは一昨年、同じ場所で見つけていた。
全国でも栽培する農家は数件しかなく、高級フルーツ店にも出回らないが、
古くから皇室に献上されてきた、ありがたい果物。しかし、
達也「何かに食われて、実が下に落ちてる」
すると、落ちた実の上を這う昆虫が。
調べてみると、“マイマイカブリ"という生き物。
果物も食べるが、カタツムリの殻をかぶるようにして
食べることから、その名がついた。
飛ぶことはできず、危険を感じると、尻から酸性の液体を噴射する。
しかし、実を狙うライバルは他にもいた。
達也「ダメだ、鳥に食べられてる」
そのおかげで、去年は収穫ゼロだった。
今年は何とかしてありつきたいが、
実が生っているのは、高さ7mの木の上。
と、間もなく43歳、達也があっという間に樹の上6mへ。
そして、鈴なりに生っていた食べごろをいくつか頂戴したら、
残りは、鳥や虫たちの分。
では、城島も合流し早速、その実りを味わう。
長瀬「甘い!スイカの味じゃない?」
ムベの甘さを堪能していると、城島が別の赤い実を持ってきた。
それは港跡で見つけた“ノイバラ"の実。
城島「リンゴもバラ科やし、この実も赤いからイケるかな」
城島の十数年におよぶ農業経験のひらめきから、
毒はないと判断したのだが、味はどうか?
長瀬「堅っ!種がいっぱい入ってる。味はしない」
調べてみれば、この実、下剤となる生薬の素。
効き目が強いらしく、用量用法には注意が必要。
長瀬「赤かったら何でもイケると思ったら大間違いだよ、リーダー」
そして、すっきりしない空のある日。
男たちは、森の中で、水路の作業を再開させていた。
井戸から始まったポンプ計画は、45m地点。
そこに、高さ5mのポンプ櫓を組み上げた。
ここに一旦、水を溜め、手押しポンプで再び水位を上げる。
そして、徐々に傾斜をつけて流して行けば、
あとは、目指す舟屋がある小島まで、
水路を伸ばして行くだけ…の、はずだった。
達也「この辺、ちょうどウサギの行動範囲だから」
ポンプ櫓から浜までの間に広がる森、
ここには、かつての島民が残したものか、
野生化したウサギの姿が何度も目撃されている。
この森は、住処なのか、エサ場なのか。
さらに、こんな生き物も。
長瀬「あー!ノコギリクワガタだ!」
ここは、生き物たちには欠かせない森。
なるべく環境を変えず、驚かせることなく水路を通したい。
達也には、ある考えがあった。
達也「水路の橋だ」
それは、岩手・久慈で見た、川をまたぐように架けられた橋型の水路。
その構造を無人島で再現しようとしていた。
達也「土台を建てずに通り抜けられる」
つまり、ここまでの水路の土台の間隔は2m。
これを広げて建てることで、森の環境を変えずに水路を通せるはず。
つまり、ポンプ櫓の10m先に、もうひとつ櫓を作り、
この間に、長い一本の木樋を渡す。
作業は、急ピッチで進められた。
達也「よし、出来た!第2櫓」
これで、一本モノの木樋を支える土台は出来た。
あとは、櫓の間を一本で結ぶため、10m近い水路が必要となるが、
達也「丸太で作る」
というのも、材料となる丸太も、岩手・久慈で頂いていた。
さらに達也は、それを丸ごと一本使って、
水路にする方法も学んでいた。
それは、今年の夏、岩手・久慈で。
達也「ししおどしと同じ要領の脱穀機だ」
テコの原理を使った脱穀機は、組み立てが簡単なことから、
昭和初期まで各地の農村で数多く見られた。
その動力となる、水を運んでいるのは、水路。
達也「板を組まないで、丸太をくり抜いてる」
板を組み合わせる形が普及する前は、
この“丸太木樋"が主流で、歴史は古く、室町時代まで遡る。
その材料には、樹皮の色が、名前の由来・赤松を。
松ヤニなどの油分が多く、水に強く、水路にはもってこい。
そこで、他の木の生長を助ける為に切り倒された、
赤松の間伐材を頂き、DASH島へ持ち帰った。
達也「木をくり抜いた方が水漏れも無いしね」
しかし、本当に長いのは、ここからの作業だった。
まず、赤松の丸太を切って平らな面を作り、
そこに水を流すための溝を彫っていくのだが、
すべて、人力で行うのは、かなりの重労働。
そこで、達也が持ってきたのが、どデカいノコギリ“前挽大鋸(まえひきおが)"。
これも、岩手・久慈の道具倉庫に眠っていた。
刃渡り60cmの巨大鋸。
山から切り出した丸太を、板や角材に加工する専用のノコで、
刃の幅が広いほど、断面に当たり、ノコは真っ直ぐ進む。
曲がった持ち手も、引く時に力が入りやすいように工夫されている。
ありがたく、譲って頂いたこの巨大ノコで、
まずは、10mを縦切りに。
達也「刃に重みがあるから勝手に進んでくれる」
しかし、誰もが簡単に扱える代物ではなかった。
前挽大鋸を使いこなす職人は「木挽(こび)き」と呼ばれ、特別な存在だった。
かの葛飾北斎も、作品の中に数多く登場させている、
まさに、腕利きの証。
しかし、ここからはひたすら、ただ曲がらぬよう、
真っ直ぐに挽き続けるしかない。
そして、2日をかけ、ようやく平らな面を切り終えた。
次は、この平らな面に溝を彫っていく。
その方法も、岩手・久慈で教わった。
使うのは、“ちょうな"と呼ばれる、
柄が鍬のように曲がっている斧の一種。
それは、丸木舟や臼など、木の塊の内側を少しずつ、
くり抜くために用いられる道具。
この“ちょうな"で浅く彫る作業を繰り返すことで、深さは均一に。
水を通すには、溝の深さは10cm。
さすがの達也、コツはすぐに掴めたが、根気が必要だった。
そして、作業二日目、待望の助っ人は松岡と長瀬。
松岡「削る時にスナップを利かさないとね」
ドラムを叩く技術が、ちょうなの作業に役立ったかはわからないが、
ほんの少しずつ進んでいった。
そして、ついに溝の深さはおよそ10cmに。
継ぎ目もなく、水漏れの心配はない。
達也「結構、木樋の距離を稼げたんじゃない?」
しかし、ここからが大仕事。
赤松の一本モノ、約200kgを地上5mの櫓の上へ。
この丸太が架かれば、浜まではあとわずか。
↑ページTOPへ