『北登、海へ行く』

小学校に入ったばかりのころ、ひとりで山登りに出かけたことがありました。焼そばと水筒を持ち、足取りも軽く、トンネルを抜け、川に沿い、原っぱを歩いていました。そのときです。横から真っ黒な大きな犬が現れました。この犬は綱も首輪もつけていない、野犬のようです。私は動きが止まりました。
この黒く大きく、毛の汚れた犬は、あろうことか、私に近寄ってきました。私は、怖くなり逃げようと思いましたが、逃げたら追いかけられると思い、その場に立ち尽くしました。黒い犬は、私の持っている焼そばを狙っているようです。私は焼そばを頭の上に乗せて、じっとしているしかありませんでした。黒い犬は私の前で真っ赤な舌を出してじっと焼そばを見上げています。私は震えが止まらず、かいていた汗も一気に吹き飛び、絶体絶命だと思いました。

結局、そのときは別の茶色い犬がやってきてその黒い犬は私を襲うことなく、茶色い犬とどこかへ行ってしまいましたが、あのときの黒い犬の荒い呼吸と生暖かいにおいは今でも覚えています。そして、それ以来、私は、極力、犬と関わらないようにと注意を払いながら生活してきました。

柴犬の北登がDASH村にやってきた冬、私はまず、困り果てました。犬とどう接していいのかわからないし、八木橋とうまくやっていけるかも心配でした。案の定、北登は、体は小さいのに、動きはすばやく、すぐに噛みついてきます。
やっぱり犬とは触ることすらできないもの。どうやら私が怖がっているのを見抜いているようで、暴れ放題です。そして、とても警戒心が強いようで、なかなか知らない人間を受け入れようとはしないのです。

しつけに悩んだ私は、犬の本を読み、様々な取り組みをしました。「最初は噛まれて当たり前」という言葉を信じて、心が通い合うようにと、誠実に、そして、優しく、ときには厳しく、あの手この手でしつけをしました。
それから半年、さすがに北登も毎日寝食を共にする私のことを無害な人間と認め、この男と一緒に暮らすのも悪くないと思ったのか、ある程度は言うことも聞くようになりました。ただ、もう、吠えたり、噛み付いたりすることはなくなっていましたが、素直になるのは、おなかがすいて食事を欲しがっているときだけで、その他のときは、勝手なことばかりしているのです。どうやら、まだ、私のことを主人として認めてくれていないようなのです。

そんなころ、私は、まだ、この犬は海を見たことがないのだ、ということに気づきました。
そこで、季節も夏ですし、海へ行ってみることにしました。
山を越え、川をいくつも渡り、町を抜けます。途中、北登は車酔いして、朝食べたものを戻してしまったので、車を止め、休みました。北登は戻してしまって気まずそうな顔をしていました。そして、再び、走り出し、ようやく、海に着きました。

車を降りると、北登は浜に向かって勢いよく飛び出して行きました。クンクンとあたりのにおいをかぎまわりながら、私を引っぱっていきます。
ただ、波打ち際には一度行ったきり、近寄ろうとしませんでした。波が、何かの生き物が襲いかかってくるように見えたのでしょうか、連れて行ってもすぐに戻ってきてしまいます。そして、風が強かったため、砂が目に入ったのか、目をしょぼしょぼさせていました。

しばらく、私と北登は浜にいました。日が暮れるころまで佇んでいました。
そのとき、私は、ある企みを考えました。ここで、綱を放してみたらどうなるだろうか。北登はDASH村では、すきあらば逃げて、勝手に走り回ろうとしています。ですので、綱を放したら、逃げるに決まっています。ただ、私は、なぜかこのとき、北登が逃げないか、もしくは、逃げても私の元に戻ってくるような気がしていました。
私は、戻ってこなかったら大変なことになるのは承知の上でしたが、一か八か、北登を信用してみました。
そっと綱を放してみます。綱は砂の上にひらっと落ちました。北登は、落ちた綱をチラッと見やります。しかし、いつもならその瞬間に飛び出していくのですが、北登は逃げ出すどころか、私にくっついてきたのです。そこで、試しにと、私の方が、堤防の方に走り出すと、なんと、足元にまとわりつくようについてきました。

北登に噛まれた傷は今も右手の中指に残っていますが、それも大切な想い出。
北登の体を触るのが楽しみになってきたのは、このころからです。