衝撃の毒殺男 1時間40分の謎
ある年の5月・沖縄県。
琉球大学医学部・法医学教室に勤める大野曜吉助教授(当時)の元に、ある連絡が。
それは石垣島で急死した若い女性旅行客の行政解剖の依頼だった。
実はその女性、沖縄本島に夫と旅行に来ていた。
そして亡くなった日の朝9時30分、夫とホテルで朝食を済ませ那覇空港へ。
妻は友人と合流して石垣島へ旅行に出かけた。
11時40分、夫は仕事で大阪へ。
そして昼過ぎの12時53分、女性は石垣島に到着。
ここまでは普段と変わらない様子だったが、ホテルへ向かう途中で急に黙り込んだ。
13時15分、背中には水をかぶったかのような大量の汗が。
吐き気や痙攣が彼女を襲い、救急車で搬送された。
救急隊員からの質問には、苦しみながらもしっかりとした口調で答えていたが、ホテルを出て7分後、心臓が停止。
すぐに救命処置が行われたが…15時4分、死亡が確認された。
実は、友人たちはこの突然すぎる死に大きな疑問を持っていた。
そして、警察に相談。
こうして、警察は琉球大学の大野に遺体の解剖を依頼したのだ。
大野の手によって遺体の解剖が始まった。
彼女の心臓の一部に小さな鬱血があったが、急死につながるような明らかな異常は見つからない。
遺体には明らかな異常がないため、夫には死因を「心筋梗塞」と伝えた。
だが何かがおかしい…夫に死因を伝えた時、結婚してすぐに妻に先立たれたわりにはやけに冷静だと大野は感じた。
すると、夫は驚きの事実を告げる。
実は妻を亡くしたのはこれが3人目だった。
1人目の妻も胸の痛みと激しい吐き気を訴え、心筋梗塞で急死。
そして、2人目の妻も結婚してから、体の不調を訴えるようになり、急性心不全で帰らぬ人になっていたのだ。
怪しすぎる夫の行動
その頃、亡くなった妻の友人たちは、ある人物に不審の目を向け始めていた。
実は、亡くなる少し前から女性はある薬を飲んでいた。
疑問に思った友人が聞くと、夫が自分の体に合わせて、特別に調合してくれている栄養剤なのだと答えたという。
こうして、友人たちは怪しげな薬を飲ませる夫に疑いを持っていた。
一方で友人たちは、飛行機の中でも石垣島に到着した後も、女性が何かを口に入れた様子を見ていない。
つまり、もし夫が何かを飲ませたとすれば友人と合流する前ということになる。
それは、発作を起こす1時間40分以上も前のこと…そんなに長い間変化が起きない薬も毒も思い当たらない。
しかし、夫はかなり怪しかった…そして、不可解な行動が次々と明らかになる!
なんと2番目に亡くなった妻には1000万円の保険金が、そして今回亡くなった妻には4社の保険会社に合計1億8500万円もの保険金がかけられていたことが判明する。
おそらく、夫が妻の友人と会う前に何かを飲ませ殺害したと思われたが、その毒や薬物に全く見当がつかなかった。
大野は、大量の資料を読みあさった。
そして、亡くなる直前の妻の様子や症状からある毒の可能性を見つける。
それは…トリカブト。
沖縄をのぞく日本全国の野や山に自生する、紫色の美しい花を咲かせる野草。
その根には、特に猛毒があることが知られている。
実は、夫は園芸店からトリカブトの鉢植えを62鉢も購入していたことがのちにわかる。
さらに妻の友人たちに「5月に妻と沖縄へ旅行に行ってくれませんか?」と自ら旅行の計画を持ちかけていた。
仕事で難しいと渋る友人を「費用は自分が負担するから」と何度も誘う夫。
そうまでして妻と旅行して欲しかったのはアリバイ作りのためだったのか?
実はトリカブトは口から摂取すると、15分から30分で症状が現れる即効性の毒だった。
妻は亡くなる直前に何も口にしていない…つまり1時間40分の謎が残る。
これが、日本の毒殺事件に名を残す「トリカブト保険金殺人事件」。
夫の名は、神谷力。
この事件は連日報道された。
ついに解き明かされた1時間40分の謎
メディアは、神谷を疑惑の人物として取り上げた。
保険会社は、疑わしい人物への支払いを拒否。
すると神谷はなんと、自ら保険金を早く支払うよう民事訴訟を起こしたのだ。
さらに、妻の血液からトリカブト毒が検出されても神谷はこう言い切った。
神谷「私だってね、やってないことの証明はできませんから。どうぞ証明してください、と言うつもりでおります」
このコメントは科学捜査に挑戦状を叩きつけているようだった。
1時間40分の謎。
毒の効果をカプセルで遅らせる方法を検証したが…二重、三重にして試しても、カプセルだけでは、10分程度しか時間を遅らせることはできなかった。
一体、どうやって神谷は妻を殺したのか!?
実は神谷は、専門家が使う高度な機械を入手、100匹以上のマウスで何年にもわたって毒を研究していた。
そして、トリカブトにある毒を混ぜることで1時間40分のトリックを見つけたのだ。
強気の神谷。一方、警察は地道な捜査をひたすら続けていた。
そんな中、思いがけないところから情報が!
それは漁師からの通報だった。
数年前、神谷そっくりの男が大学教授の助手と名乗り、フグを大量に買いに来たという。
その量なんと1匹1000円で1200匹、120万円で購入していた。
このフグが全ての謎を解明する。
保存していた妻の血液を調べると、フグ毒も検出された!
そう、神谷はトリカブトにフグの毒を混ぜていたのだ!
トリカブト毒とフグ毒は、いずれも脳から細胞に伝える命令系統に異常をもたらす神経毒。
しかし、この二つの毒は細胞膜に相反する働きをするため邪魔をしあい、互いに毒の即効性を失わせてしまう。
こうして、通常ではあり得ない1時間40分のトリックが生まれたのだ。
神谷は、前の2人の妻に対しては罪に問われることはなかったが、3人目の妻をトリカブトとフグの毒を用いて殺害したとして無期懲役が確定した。
事件解決のきっかけとなったトリカブトの毒を見抜いた大野曜吉名誉教授によると…。
普通、遺族に死因を説明する際は、遺族は黙って聞くことが多いなかで、神谷の場合は死因について説明すると、専門的なことを理解していたという。
さらに沖縄旅行を選んだ理由については、沖縄にトリカブトが自生していないことを計算していたのではないかと語る。
毒の研究に、そして完全犯罪に全てをつぎ込んだといっても過言ではない神谷力元受刑者。
男は2012年11月17日、医療刑務所内で病死した。