ホテルニュージャパンの大火災 ずさんだった管理体制
1982年2月8日の午前3時頃、東京・赤坂の豪華ホテル「ホテルニュージャパン」で起きた火災。再現ドラマで紹介した。
火災の数ヶ月前、埼玉県・当時の大宮市。結婚を控える30代のカップル、山林さん夫妻が披露宴の会場として選んだのはホテルニュージャパンだった。同じ頃、京都府福知山市では、東京の私立大学を目指す受験生、滝野晃人さんが、母親と宿を決めていた。第一志望の私立大学の受験日は2月8日。ホテルニュージャパンに前日から泊まる予定だった。
1982年2月7日午後4時頃、この日披露宴を催す山林さん夫妻がホテルニュージャパンに到着した。4階から10階までの客室は、エレベーターを降りると廊下がY字に3方向に広がり、その先に行くとまた3方向の廊下が現れるかなり特徴的で、わかりづらい造りだった。また、ホテル内は空気が乾燥していて、静電気が頻繁に起きていた。
同じ頃、受験生の滝野さんもチェックイン。一流ホテルと聞いていたがうす暗く感じたという。
その2日前、一人のイギリス人男性が成田空港に降り立っていた。この会社員は日本に営業の仕事で来ていた。彼もホテルニュージャパンに宿泊。
7日夜7時、90人ほどが参加した山林さん夫妻の披露宴が始まった。すでに宿泊していたイギリス人会社員は938号室に戻る。その部屋は受験生の滝野さんが泊まる937号室の向かい側だった。
その後イギリス人会社員は繁華街へ行き、日付が変わった2月8日の深夜1時40分頃、かなり酒に酔った様子でホテルに戻ってきた。同じ頃、滝野さんは試験に備えて眠ることにした。山林夫妻の門出を祝う飲み会は3次会まで続き、ホテルに戻ったのは午前2時頃だった。
そして部屋の乾燥が気になって眠れなくなった山林さんは、タオルを濡らし、ベッドの脇に干した。
一方、酔っぱらった状態でタバコを吸っていたイギリス人会社員は、火のついたタバコを持ったまま寝入ってしまいタバコの火はシーツに引火。眠っていた会社員は気づかなかった。
午前3時15分頃、フロント係は仮眠を取りに9階へ。周りを見回すと、938号室のドア上部付近から白煙が出ているのを発見。このフロント係は入社12年目だったが、対処の仕方がわからなかった。
1階に戻ったフロント係。ルームサービス係の従業員が9階へ向かうと中から英語で叫び声が。マスターキーで部屋を開け消火器で消火を試みる。
火は消えたように見えたが、この1分後、ベッドの中でくすぶっていた火種によって再び炎が上がる。さらに突然燃え上がり9階を焼き尽くすことになる。
消化器で火が一旦消えたように見えた時、ルームサービス係は火災を知らせるように動いた。しかし、何より恐れたのが社長からの叱責。「なんでボヤごときで大騒ぎしてるんだ!と怒られたら、あの社長なら下手したらクビになる」という恐れから、小さく声かけをしただけで、これで起きた客は一人もいなかった。
1979年、このホテルを約140億円で買収し社長となったのが横井英樹という人物だった。横井は戦時中、日本軍に納品する服などで儲け、戦後、その金を元手に不動産業に進出。鎌倉、熱海、軽井沢、箱根などの土地を買収。その後観光地化が進み、地価が暴騰したことで大金を得た。さらに企業買収を進め、世間からは乗っ取り屋と言われるようになった。そんな横井が目を付けたのが、都心の一等地にありながらも経営悪化に苦しむホテルニュージャパンだった。
横井はすぐに建物を改装。宴会場にはシャンデリア、ロビーにはルイ王朝時代の家具を置いた。ホテルニュージャパンは一見、豪華ホテルへと変わった。
しかし、前経営陣が残した累積赤字は30億円もあった。半年後、横井の従業員への態度は変わり始める。赤字から脱却するため横井は支出を極限まで抑え始め、1万円以上の買い物は全て横井の許可が必要になった。そんな状態のとき、支配人が「消防庁からスプリンクラーの設置と内装を不燃性のものに取り換えるよう何度も指導が入っていまして」と報告する。
少し前まではスプリンクラーの設置は義務ではなかった。しかし、1970年代に起きた2つの大火災、1972年の大阪・千日デパート火災、1973年の熊本・大洋デパート火災によって、消防設備の設置規制が強化されるだけでなく、新しい規制を人命危険の高い古いビルにも遡って適用するよう、消防法の改正が行われ、この改正により、昔建てられた百貨店やホテルなどにも、最新の基準に従って自動火災報知設備やスプリンクラーを設置することが義務づけられた。
管轄の麹町消防署は幾度となくニュージャパンに立ち入り、指導。横井がようやく面談に応じたのが1981年8月。東京消防庁はニュージャパンに改修命令を出した。
設置業者から見積を取ったり打合せをしたりして工事準備を進めたが、最終的に横井が代金を値切ったため着工できず、スプリンクラーは設置されなかった。他にも、火災の拡大を防ぐはずの防火戸は絨毯を噛んで閉まらず、ほとんどの火災報知機も故障していて反応はせず、設備点検をする業者は横井が予算削減のため、契約を切っていた。
さらに空調設備も問題を抱えていた。このホテルの暖房は本来、外からの空気に水分を混ぜて加湿し室内を温めるものだった。しかし横井は、すでに温まったホテル内の空気を循環させ、さらに加湿機能を止めることで電気代を節約していた。ホテル内は異常に乾燥し、いつ火事が起こっても不思議ではない状態だった。
そんな横井のやり方に不満を持った従業員たちは次々に辞めていき、400人近くいた従業員は130人程に。従業員の減ったホテルでは業務外の仕事が増えていき、防災訓練をする余裕はなく横井が社長に就任後一度しか行われなかった。
そんな中での火災で訓練されていない従業員たちはパニックになり、それぞれに動き回った。しかし自動火災報知機が故障していたため火事が起きても警報は鳴らず、従業員は横井を恐れて火事を触れ回ることもせず。そのため、宿泊客は何も知らないまま眠り続けていた。
一方、出火元の向かいの部屋で寝ていた滝野さんは異臭に気づく。その時9階の火元では、くすぶっていた火が再び勢いよく燃え始めていた。ルームサービス係はドアを開けたまま消火器を探しに飛び出した。これが最悪の結果を招く。
火のついたベッドや毛布などから発生し部屋中に広がっていた可燃性のガスが、廊下から入ってきた酸素によって引火。これはフラッシュオーバーと呼ばれる現象。噴き出した炎は、乾燥していた廊下・天井のクロスに引火。瞬く間に燃え広がっていった。
火災後の調査では壁の欠陥も明らかになった。部屋と部屋を隔てる壁はブロックを積んで、合板を張っただけ。ブロックの穴が空気の通り道となり、炎は燃え広がった。
最初に火災を発見し何もできずに1階に戻ったフロント係は、もう一度9階へ。とっさに消火栓箱があることを思い出したが使えなかった。結局宿泊客を残したまま9階を逃げ出してしまい、従業員たちは火元の9階以外で火事が起きたことを触れ回った。その間にも9階の廊下では、フラッシュオーバーを繰り返しながら炎は広がっていく。
火災の一報はホテルからではなく、タクシー運転手からだった。フロント係が火を発見してから24分も経過していた。
午前3時39分、麹町消防署で火事の一報を受けたのは隊長・高野甲子雄さん率いる特別救助隊。高野さんは「ボンベは必ず一人一本ずつ持っていこう」「簡易呼吸器、それから救助用ロープも持てるだけ持っていくぞ」と指示を出す。
一報から5分、高野さんたちが現場に到着。9階と10階には逃げ遅れた100人を超える宿泊客がいた。一刻も早く救出しなければならなかったが、道路からは距離があり、はしご車のはしごはすぐには届かない。
高野さんは「進入路を探してくる!」と正面玄関へ回った。実は高野さんは視察をしに一度ニュージャパンに来ていた。「裏に警備室があったはずだ」と思い、「逃げ遅れがいる場所まで案内してください!客が通らない裏口から行きたい!」とホテルの警備員に告げると、「社長に連絡しないと」との返答。しかし高野さんは、「待てない!客の命がかかっているんです!」と飛び込んでいった。
レスキュー隊は裏口の階段を駆け上がり9階までたどりついた。その鉄の扉は熱で膨張しているように見え、開けられそうもない。10階の扉は熱くなく、有毒ガスを吸わないように圧縮空気のボンベを背負いマスクを付けて黒煙の中へ。そして逃げ遅れた3人を救助した。
屋上から梯子を下ろし9階に降りる作戦だったが、まだ10階に人がいた。ハシゴが来ていないので輪に肩を通して持ち上げるロープを下ろすが、日本語が通じないようだった。そこでもう一本ロープを垂らす。高野さんは「こうして肩に通して!」とジェスチャーで伝えた。こうして屋上から9人の救助に成功した。
そのころには、東京消防庁最大規模の出動命令「第4出場」が発令され、120台を超える消防関係車両が集結。正面からははしご車での救出も始まっていた。
一方で、高野さんたちのいる反対側は、はしご車も救助隊も行きにくい場所だった。そこでは山林さん夫妻が、今にも飛び降りようとしていた。
そのとき、一つ上の10階から男性がシーツを下ろしてきた。韓国人宿泊客のユンさんだった。
夫は自分の部屋のシーツをはぎ取り、ユンさんへ投げた。ユンさんはシーツを固く結び、下へ。結ばれたシーツを辿れば脱出できる。しかし、そこまで行くには数10cmの窓枠を歩き、客室間の目隠し用に設置されたブロックまでたどり着かなければならない。
夫は意を決し、壁にへばりついて窓枠を歩き出した。次は妻が歩く。懸命に手を伸ばした妻の身体を支え、抱き寄せた。そのシーツを命綱にユンさんの部屋へ。そして非常階段を駆け降り、夫婦とも生還することができた。
一方、屋上で救助を続ける高野さんたちレスキュー隊。10階の部屋の中に、もう一人取り残されており、その時、要救助者のいる部屋の隣でフラッシュオーバーが起こった。先に救助に行った隊員のボンベは空に。ボンベの空気が残り少ない中、高野さん自ら救助に向かう。そのときフラッシュオーバーが起きた。
9時間後、炎との闘いは終わった。この火災での死者は33人、負傷者は34人。消防士たちが救い出した命は63人だった。
山林さん夫婦は近くのホテルに避難。滝野さんは避難後、受験票も筆記用具も燃えてしまったものの、京都から駆け付けた家族の助けと大学側の配慮もあり受験することができた。東京の大学に合格した滝野さんは大学3年のときに洗礼を受け、今は牧師として働いている。火災の原因となったイギリス人会社員は、9階の廊下で焼死体となって発見された。フラッシュオーバーに見舞われた高野さんは、ホテル近くの病院で命を取り留めた。
ホテルの代表である横井は火災発生現場に蝶ネクタイ姿で登場し、「9階10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」「悪いのは火元となった宿泊客」と責任を転嫁する発言をした。その後、記者会見で謝罪したものの、自身の責任については終始曖昧な発言を貫き、遺族などから手厳しく非難された。
横井秀樹には業務上過失致死傷の罪で禁固3年の実刑判決が下り、その後確定した。黒く焦げたホテルは廃墟のまま14年間も放置された。東京港区の増上寺境内には「ホテルニュージャパン火災事故の犠牲者を慰霊する観音像」が火災事故から5年後の1987年2月8日に建立された。