若いカップルを引き裂いたJAL123便
1985年8月12日。
乗客乗員524人を乗せた日本航空123便が御巣鷹山の尾根に墜落。
単独機の事故としては過去最多となる520人の尊い命が犠牲となった。
この事故により運命を引き裂かれた一組のカップルがいる。
墜落事故から30年。今も心に大きく残るその悲劇とは?
"二人の出会いは大阪だった"
2人が出会ったのは1984年の春。
19歳の角田博且(ひろかつ)は東京で相撲部屋に入門してまだ2年の新米力士。
四股名は「琴天旭」(ことあまき)。当時の番付は序二段。
小さいころからの運動神経の良さが買われ、17歳の時にスカウトされた。
そんな博且が大阪場所に来ていた時だった。
大阪の相撲部屋を訪ねてきた一組の家族。父親は部屋の関西支部後援会長だった。
そこで話しかけてきたのが後援会長の娘。
相撲が大好きだったその女性は、来月東京の専門学校に進学するといって
連絡先を博且に伝え、去って行った。
積極的な行動に戸惑った博且。さらに大切な後援会長の娘でもある。
新米力士がおいそれと気軽に話していい相手ではない。
しかし、2年間男だらけの生活だった博且にとって、それはとても刺激的な出来事だった。
そんな出会いから数か月。
2人は連絡を取り合い、いつしか交際が始まった。
といっても博且の生活は地方場所や部屋の雑務もあり、なかなか彼女に会うことが出来ない。
なので場所終わり直後の休みの際は必ず会うようにしていた。
2人の交際はお世話になっている兄弟子だけには伝え、親方には秘密にしていた。
つき合い始めて9か月。
博且は彼女の応援もあってか、三段目に昇格した。
わずかに許された時間を丁寧に紡いでいった二人。
こうして1年4か月が過ぎようとしていた。
"2人の別れは突然に..."
1985年8月12日。
あの事故の6時間前、彼女は昨日まで家族で海外旅行に行っていた。
そしてこの日、兵庫の実家に帰るという。
ホテルで彼女の母親と3人で食事をした。
母親は2人の交際を応援してくれている。
そこでお盆の予定を話し合っていた。
相撲部屋もお盆になれば休みが取れる。
博且は2日後に彼女の実家へ遊びに行く予定だった。
そしてそろそろ出発の時間。この時彼女は「新幹線で帰る」と言っていた。
海外旅行のお土産を博且に渡し、いつもの様に笑顔で別れる2人。
これが2人で会った最後の瞬間だった。
新幹線に乗ると言っていた彼女は何らかの予定変更があり
一家で羽田発大阪行きの日航機123便に乗った。
その飛行機は羽田を飛び立った後、無事に大阪へ着陸することはなかった。
"そして最悪の事故が起こった"
飛行機が飛び立っておよそ2時間後、ニュース速報が流れた。
羽田発大阪行きの日航機123便が消息を絶ったという内容。
この時、博且は彼女がこの飛行機に乗っているとは思っていなかった。
しかし数時間後、兄弟子に促されテレビを見ると
消息不明となった日航機123便の乗客名簿が発表されていた。
そこにあったのは新幹線に乗っているはずの彼女の名前だった。
状況が飲み込めない博且。
同姓同名の可能性もある。震える手で彼女の実家に電話をかける。
頼む、出てくれ。祈りを込めてかけた電話は無情にも繋がらない。
きっともうすぐ向こうから連絡が来るはず。
そう思って待ち続ける博且。しかし深夜になっても彼女からの連絡はない。
一方で報道では日航機123便の墜落が確認されたというニュースが伝えられた。
翌日、数少ない生存者発見のニュースも報じられたがそれは彼女ではなかった。
彼女の安否がわからないまま3日が過ぎたころ、日本航空から相撲部屋へ電話が。
一家が後援会長として親しくしていたことが分かったからだった。
実は今回の事故、被害が大きかったことから身元の確認が困難だったため
多方面から関係者をあたり、身元の確認を急いでいた。
兄弟子が世話役へ懇願してくれた事もあり、博且は現場へ向かう事となった。
事故現場へ向かった博且の目に映ったのはまさに地獄絵図だった。
500人以上の犠牲者を出した飛行機事故。現場は混乱状態。泣き叫ぶ被害者家族たち。
そして事故から12日後、博且は変わり果てた彼女と再会する。
彼女は最後に会った日と同じ紺のワンピースに白いベルト姿だった。
部屋に帰った博且は絶望にくれていた。
これまで打ち込んでいた相撲も、何のために頑張ればいいのか?
彼女を失った悲しみは博且からこの先の未来も奪ってしまっていた。
"心に空いた大きな穴"
心に大きな穴が開いてしまった博且。
そんな時に一通の手紙が届いた。
送り主は亡くなった彼女の親友からだった。
「博且さんが持っていた方がいいから送ります。」という手紙と共に
同封されていたのは彼女が大切にしていたファイルだった。
それは力士としての博且の活躍を細かく収めたスクラップブック。
各勝敗ごとに彼女の心温まるメモが加えられていた。
そして2人の思い出がいっぱい詰まったアルバム。
写真の横には当時の自分の気持ちが書き加えられている。
わずかな時間に会える喜びといつまでも一緒にいたいという未来への希望が
そこに記録されていた。そしてファイルは1985年の7月場所で終わっていた。
博且は思い出の品を見るうちに涙が止まらなくなっていた。
彼女を失った博且はその後、四場所連続で負け越し。
そしてケガによる途中休場もあり、番付は序二段に落ちた。
気が付けばあの事故から1年。彼女に会いたくてしょうがなかった。
"彼女の墓標が活力をくれた"
博且は親方の許しを得て、御巣鷹の尾根に向かった。
そこは彼女が最後にいた場所。登った先にはたくさんの墓標があった。
その中のひとつに目が留まった。それは彼女が見つかった場所に建てられたもの。
そこに書かれてあったのは彼女の名前と亡くなった年齢。
まだやりたいこともいっぱいあったはずなのに。
その瞬間、博且は命ある自分に何が出来るのか考えるようになった。
自分には相撲しかない。それが彼女との夢。
相撲を頑張ればいつもそばに彼女がいてくれる。博且はそう感じるようになっていた。
慰霊登山のおよそ一か月後、博且は序二段を全勝優勝。自身初の優勝だった。
その後心機一転、四股名を「琴旭基」(ことあさき)と変え、三段目も優勝。
力士としては順調だった。女性と知り合う機会がないわけではなかったが
自分から距離を置く博且。やっぱり彼女で無ければだめだった。
"力士を引退。第二の人生へ"
こうして博且は独身のまま相撲生活を走り抜けたが
左ひざ靭帯の故障もあり、33歳で引退を決意。最高位は幕下。
彼女と夢見た関取にはあと一歩及ばなかったが、博且は相撲をやりきったという
満足感でいっぱいだった。
引退の際、親方に一つ頼みごとをした博且。断髪式はしたくない。
なぜならちょんまげを結っている間は彼女と繋がっていられると考えていたのだ。
1998年、引退した博且は東京を離れ大阪へ。そこでちゃんこ店を開店した。
ちょんまげを結ったままで、住み慣れた東京を離れ大阪で店を出したのは
彼女の墓が関西にあったから。出来る限りそばにいたい、それだけの理由だった。
"突然襲った病魔。前に進むきっかけに"
しかし開店して5年がたったある夜。
友人と飲んでいると、博且は突然意識を失った。脳出血だった。
手術をし、意識を取り戻したのは2週間後。
声が出ず、体が重い。後遺症で右手足の麻痺と失語症になった。
そして頭を触ると何かが足りない事に気が付いた。
手術の際、結ってあったちょんまげが切られていたのだ。
彼女との唯一の繋がりだったまげが無くなった事でショックを受けはしたが
彼女が命を守ってくれた。そして前に進めと言っているように感じた。
その後、8年間のリハビリで何とか歩けるまでに回復した博且。
2011年、実家のある東京に戻り、さらにリハビリに専念することになった。
そしてある決意を心に秘めていた。
博且は倒れてから一度も登ることが出来なかった御巣鷹の尾根へ向かった。
回復したとはいえまだ脳出血の後遺症は残っている。
必死の思いで山を登り、彼女の墓標へたどり着いた博且。久しぶりの再会だった。
そして現在。50歳になった博且は彼女が生きていた証を
多くの人に知ってもらいたいと願いながら今も御巣鷹の尾根に登り続けている。