放送内容

2018年5月29日 ON AIR

オウム麻原の娘 衝撃の人生

麻原彰晃こと、松本智津夫死刑囚。
20年以上前に数々の凶悪事件をひき起こした宗教団体、オウム真理教の教祖。


そんな教祖の後継者と報じられた女性がいた。
麻原彰晃の三女で宗教名はアーチャリー。彼女はあの事件の後、どんな人生を送ったのか?


世間にも教団にも居場所がなかった


23年前、5月16日。父、麻原彰晃逮捕。
当時、アーチャリーこと松本麗華は12歳だった。


麻原には6人の子どもがいた。麗華にとっては、優しかった父親の逮捕だったという。
そして麻原逮捕の1か月後、母親も逮捕された。
両親が逮捕され、子どもたちは親戚の家で保護されることになった。


しかし...麗華だけは教団に取り残された。
なぜならアーチャリーは、マスコミに「教団の後継者」と報じられ、
追いかけられていたから。


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そして、12歳の少女の正体を隠す人生がはじまる。


アーチャリーは、それまで小学校へ通ったことはなかった。
寂しさを紛らわすために学校へ行きたかったという。


アーチャリーと一緒にいたのは、獄中の母から養育を任されたある女性信者。
彼女は静岡県の教育委員会にかけあった。
しかし、アーチャリーと騒がれた少女を受け入れる小学校はなかった。


麻原の逮捕から、オウム真理教が起こした事件の詳細が次々と明らかになっていく。
アーチャリーを含め信者たちのほとんどは、報道によって初めて凄惨な事件を
知っていったという。


アーチャリーはこの頃、教団の今後を考える会議に参加。
しかし、12歳の少女にできることなどない。
「親の七光り」と陰口を叩かれ、教団にも居場所はなかったという。


その後、教団は破産。
行くあてのない彼女は10人ほどの信者たちとマンションを転々とする。
しかしどこへ行っても...彼らに居場所はなかった。


身の上を隠して怯える生活の日々


教団の外では彼女の存在自体が危険視された。
その後、福島の一軒家に信者と共に引っ越した。


生活費は信者たちが支えていた。
この時、まだ14歳。教団にいる以外に、生きる術はなかった。


福島では中学校への入学が認められた。
これで、"普通の中学生"になれる。


だが、後日...教育委員会から「小学校を卒業していない」という理由で
中学への転入は認められない、と言われた。
(※条件付きで小学校への編入を勧められた。)


実はこの時、中学校に通う生徒の親たちから反対意見があった。
麻原の娘は、住民にとって絶対に関わりたくない人間...
結局、アーチャリーこと松本麗華は学校に行くことができなかった。


全国に散ったオウム信者と地域住民との軋轢は激しさを増してゆく。
麗華たちも追われるように都内へ引っ越すことになった。


その頃、麗華は離れて暮らす2人の姉に会いたくなり、訪ねてみると...
長女は、壁に向かって話しかけていた。見たことのない長女の姿だった。
そして二女も、高温の湯に何度も入るという自傷行為を繰り返していた。


アーチャリー自身もなんども自殺を考えたという。


2000年2月。オウム真理教が消滅し、後継団体アレフが生まれた。
16歳になったアーチャリーこと松本麗華はアレフには入信せず、
教団と決別する道を選択した。


親代わりをしていた女性信者もこの時、教団と決別。
社会に出て働き、変わらずに生活を支えてくれた。
麗華は早く自立するためにも、学校へ通いたいと勉強を頑張った。


中卒認定試験を突破した彼女は、通信制の高校に合格。
そこは彼女を"アーチャリー"と知りながら受け入れた唯一の学校だった。


通信制なので登校日は月にわずか1日だったが、彼女は初めての学校に感動した。
しかし、学校からは生徒たちに身の上を明かさないようにと言われていた。
素性を知られないように送る高校生活。いつかバレるのではと怯える日々が続く。


この頃、コンビニでアルバイトも始めた。
この頃同時に予備校にも通い始め、人生が好転していると思っていた。


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その矢先、写真週刊誌に記事が載った。
これが彼女を再び深い闇に引き戻す。


ただ学びたい...裁判所に訴える


週刊誌に載ると、バイト先でいきなりシフトが入らなくなった。
バイト先に身元がバレてしまい、結局店を辞めることになった。


2004年2月。
麗華は関東圏の私立大学に合格した。


そんな時...父親に死刑判決が下る。
これにより、オウム真理教が再び注目された。


そして突然、大学から呼び出された。
自分の受け入れを協議しているのだという。


麗華は、「大学で勉強したい」、「同世代の人達と毎日学校へ通いたい」
という想いを必死に伝えたが...その後、大学から入学不許可の通知が届いた。


どんなに勉強しても、どんなに努力しても麻原の娘だから、学校へ通えない。
失望の中、麗華はこれまで面倒を見てくれた松井弁護士に相談した。


自分はただ、学校に行って学びたいだけ。
それを松井弁護士に訴えると、陳述書を書くように勧められた。


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陳述書とは、訴えたいことを裁判所などが理解するための書類。
麗華は陳述書に今の自分の気持ちをぶつけた。


「私は今まで経験できなかったことを経験したいから大学へ行きたいのです。両親の娘であることが入学拒否の理由であるならば、私は一体どうしたらいいのでしょうか?」


裁判所は、入学の取り消しを認める正当な理由があるとは考えられないとして...
2004年5月、ゴールデンウィーク明けに麗華は大学に通えることになった。


始めて自分を受け入れてくれた喜び


かといって、自分は麻原の娘...目立たないよう片隅でひっそりと授業をうけよう
彼女はそう決めていた。


しかし...笑顔で自分に挨拶をしてくれる学生達。それは予想外の対応だった。
不思議に思い先生に尋ねると、ゼミで麗華の入学について話しあったのだという。


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自分を麻原の娘と知っての対応だった。
初めて受け入れられた気がした。


そして入部を希望したダンス部でも...
親の反対でどうしても麗華の入部に賛成できないという部員もいたが、
自分たちは成人しているんだから自分たちで決めよう、と入部を許可してくれた。


彼女は2008年に大学を卒業。
「人の心に寄り添う仕事がしたい」と心理カウンセラーの勉強を始めた。


そこで出会った仲間と食事や飲み会に行くこともあった。
しかし、誰も彼女の素性を知らない。バレるかもしれないという恐怖感は常にあったという。


そして2015年。彼女はある決心をした。
実名で自らの半生を描いた手記を出版。メディアにも顔を隠さず出演するようになった。


2004年9月。
ずっと会いたかった父の接見禁止が解かれた。逮捕の日以来9年4か月ぶりの再会。
しかし、第一印象は「小さな知らないおじいちゃん。」
話ができる状態ではなかったという。


その後、麻原の弁護団は6人の精神科医による鑑定結果を受け、
「訴訟能力がないのでまず治療を」と訴えた。


一方で東京高裁は「訴訟能力あり」と主張。
2006年9月15日。麻原の死刑が確定した。


麻原と面会を重ねてきた麗華は今、こう考えている。
「しっかりと治療していただき、父に裁判で話をさせて、その上で父が死刑が相当であるという判断であるならば、娘としては結論を受け入れざるを得ないと考えています。」


彼女は今、知り合いの会社で事務職をしながら心理カウンセラーとしても働いている。
これからも彼女は、自分の人生と向き合って生きていく。

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