放送内容

2019年4月30日 ON AIR

若者の命を奪った知られざる大災害

今年3月15日。
ニュージーランドのクライストチャーチで、イスラム教のモスクを襲ったテロ事件が発生。
複数の男らが銃を乱射。50人の命が奪われた。
安全な国のイメージだったニュージーランドで起きた惨劇。


実はその8年前、平成23年。
同じクライストチャーチで多くの日本の若者が亡くなった出来事があった。


日本人28人もの命が奪われたにも関わらず、その悲劇の存在すら知っている人は少ない。


未来ある子どもを亡くし、悲しみにくれる遺族たち!
さらに、ネットでの誹謗中傷!
それでも愛する我が子のために戦った...一体、その時何があったのか?


平成23年2月22日。
クライストチャーチの市街地にある、6階建てのCTVビル。


1階から3階は地元のテレビ局、カンタベリーテレビジョンがあり、4階には語学学校が。
アジア圏を中心に留学生が集まり、日本人も38人が短期留学していた。


そんな留学生の一人、横田沙希さん。
富山専門学校の1年生で英語に関わる仕事をしたいと、留学を希望。
そして、同じ専門学校の堀田めぐみさん。2人とも19歳だった。


午前中の授業が終わり、生徒は4階にあるカフェテリアにいた。
午後からは、屋外での授業。


そして、悲劇は突然起きた...留学に来てわずか三日目のことだった。


昼の12時51分、日本時間では午前8時51分のこの時...大きな地震が発生。
マグニチュード6.3の直下型地震だった。


震源の深さは約5キロと浅く、震源地が市街地のすぐ近くだったこともあり、
被害は大きかった。


日本時間朝の9時前の地震だったが、
その時、日本テレビには日本人が巻き込まれている情報が入らず、その地震を報じなかった。


衝撃の事態が家族に伝えられる


一方、地震から20分後...富山市内でメガネ店を営む、堀田和夫さんの元に電話が。
娘の通う富山外国語専門学校からだった。


娘の留学先で大きな地震が発生したことを知らせる電話だった。
念のため、すぐに娘に連絡を取ったが...繋がらなかった。


そして、横田沙希さんの父にも職場に向かっている時に連絡が。
横田さんは、すぐに学校へ向かった。
午前10時すぎ、富山外国語専門学校に到着。


まだこの時、学校に来ていた家族はほとんどいなかった。
そして、午前10時20分頃...学校関係者に最悪の情報が入る。


一方、娘と連絡が取れない家族は...BS放送を見ていた。
そこには、大きな地震だったとわかる現地の映像が。


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そして学校関係者から最悪の報告が家族に告げられた。
38名の日本人がいたビルは倒壊していた。


倒壊したCTVビルでは、火災も発生。
学校側は会見を開いた。


地震から7時間、富山外国語専門学校から留学していた
生徒21人のうち2人の無事が確認されたというが、名前は分からない。
家族の誰もが、自分の子であって欲しいと願った。


夜になると、救助された生徒の名前が次々判明していく。
富山外国語専門学校の生徒21人のうち、8名の生存確認が取れた。


残りの生徒は13人。
自分の娘の名前が、呼ばれるのを祈るしかなかった。


我が子の無事を願う家族たち


そんな中、様々な情報が入ってくる。
実は、留学する5か月前の2010年9月。
クライストチャーチ近くでマグニチュード7.0の地震が起きていた。


この時の震源の深さは12キロ。
街の中心地から離れた場所だったため、被害はほとんどなかった。
この地震の余震は2000回を超え、今回の地震は、5か月前の余震の可能性が高かった。


震源地が市街地のすぐ近くだったので多くのビルが崩れたが、
完全に倒壊したビルはわずか2棟。その一つがCTVビルだった。


地震発生の翌日...日本から国際緊急援助隊の第1陣、66名が現地へ向かった。
日本でも、ニュージーランド地震の状況をトップニュースで報じた。


国際緊急援助隊の救助作業が始まると、被害状況も次々明らかに。
地震から48時間、新たに生徒1人が救出された。


一方、遺体が発見された情報も多くなっていく。
わずかな望みを信じ、家族はニュージーランドへ向かった。


家族は、すぐにでもビルの倒壊現場に行きたかったが、
安全確保のため、ビル倒壊現場の半径2キロ周辺は立ち入り禁止区域となり、
家族であっても入ることは許されなかった。


何もすることができず、安全な部屋で情報が入ってくるのを待つだけだった。


地震から3日目。
CTVビルに埋もれているのは約120人。そのうち、47人の遺体が見つかっていた。


現地にいる家族には現場の状況はわからない。
それどころか、クライストチャーチ市内のホテルは危険ということで、
100キロ以上離れたホテルに宿泊させられた。


72時間以上経てば、生存率はぐっと下がる。
生徒の状況は依然わからず、時間とともに生きている希望が薄れていく。


家族たちは部屋で待機してただ報告を待つだけ、何もする事ができない苛立ちが募った。


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国の方針で娘に会えない苛立ち


ニュージーランドに来て5日となる3月2日。
ようやくCTVビル倒壊の場所へ行くことが許された。


だが、バスから降りることは許されず、バスが停車できるのはたった5分だけだった。
そして、家族たちに衝撃の光景が...エレベーターホールだけが残り
倒壊した瓦礫はほとんどなくなっていた。


この状態を見て...娘の生存の望みは完全に絶たれた。


翌日、ニュージーランド政府は生存者がいる可能性はないと判断し、
CTVビル倒壊現場の救出作業の終わりを発表した。


日本であれば、家族が遺体を見て、確認することが出来るが、
ニュージーランドでは、国際的なマニュアルに沿って活動していた。


そのため、ニュージーランドでは法医学的に本人確認ができないと会うことはできなかった。
横田さんの父は日本で待つ息子に頼み、娘の歯型が分かるものを日本から取り寄せた。


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ニュージーランド地震での犠牲者は185人。
そのうち、日本人は28人。


家族たちは、毎朝6時にはホテルを出発し100キロ以上を移動。
今日こそは娘に会えると信じ、鑑定結果を待つ日々。
異国の地で、何もかも勝手が違う中、精神的にも追い詰められた。


ニュージーランドに来て10日。
ようやく遺体が安置してある場所へ行ける許可が出た。
だが、またしても家族たちはとんでもない目にあわされる。


遺体は、軍施設に安置されていた。
入り口まで来たところで、入れるのはここまでだと警察に止められてしまった。
施設はフェンスで仕切られており、麻布で覆われ屋根が見えるだけだった。


何度抗議しても聞き入ってもらえない。
家族たちは、なんて意地悪な国なんだと思ったという。


3月10日、ニュージーランドに来て12日。
子どもに会えない家族は、家の事情もあり一時帰国することに。


しかし空港に向かっているその時、外務省の担当者から突然、
子どもたちの確認が取れたので会えるとの連絡があった。


突然、娘に会える事に...堀田さんの父は富山で待つ息子たちをニュージーランドに呼んだ。
だが、再び堀田さんを苦しめる事態が起きてしまう。


日本でも震災が...そして娘との再会


翌日の3月11日。
息子から、空港に向かっていると連絡があったその時だった。
日本時間の午後2時46分、平成史上最大の災害、東日本大震災が発生!
マグニチュード9.0の地震が東北地方を中心に襲った。


この地震は、ニュージーランドでも、大きく取り上げられた。
次は日本の息子たちと連絡がつかない...娘を地震で亡くし、今度は息子たちが...
堀田さんの父は嫌な思いが頭をよぎった。


しかしその2日後、3月13日。
堀田さんの息子たちは無事、成田ではなく大阪からニュージーランドに到着。
ようやく家族全員で、娘と再会できた。


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東日本大震災は、想像をはるかに超える被害。
震災翌日には、ニュージーランドに来ていた国際緊急援助隊も帰国。
そして、メディアも遺族の前からパタッといなくなった。


そして、ここから始まる遺族の戦いは世間の耳に届くことはなくなっていく。


ニュージーランドに来て18日目の3月15日。
横田さん家族のもとに、日本から取り寄せた歯型が一致したと連絡があった。
そして家族と再会...それは、娘だとはっきりわかる姿だった。


翌日、娘の遺品が残っていたと連絡が。
娘が大好きなピンク色のリュック。母が買ってあげたものだった。


一方日本では、福島第一原発で水蒸気爆発が発生し、緊迫した状況が続いていた。


日本中が、東日本大震災で大変な時、
横田さんは、娘とともにひっそりと日本に帰国した。


今でも戦い続ける遺族たち


地震から2か月後の2011年4月11日。
第三者機関がビル倒壊の原因を調査した。


その報告書は、全て英語で専門用語が多く、翻訳も難しかった。
遺族たちは慣れない英語と戦う日々。


そして、何度もニュージーランド大使館を訪れ、多くの死者を出したビル倒壊の
責任の所在を訴え続けた。


しかし、懸命に戦っている遺族に対し、ネットでは「任意での留学だから自業自得」
などと誹謗中傷するものたちも現れた。


そして、地震から1年...ニュージーランドで追悼式が行われた。
遺族は、初めて娘が最後にいた場所に立つことができた。


第三者委員会発足から1年半たった2012年11月29日。
最終的な調査報告が発表された。


大きな原因は耐震。
設計が酷すぎたのと、施工会社も鉄骨が細いなど、手抜きとも思える欠陥ビルだった。
さらに、ビルの建設許可を市が認可するべきではなかったとまで書かれていた。


実は、地震前にクライストチャーチ市は、建物の耐震調査を行っていた。
問題のない建物には、グリーンカードという認定書が貼られていったが、
実は倒壊したCTVビルにも、グリーンカードが出されていたのだ。


これにより、市の調査がずさんだったことが判明した。
この報告書の結果は遺族にとって、怒りしかなかった。


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そして、2017年11月。
警察からの最終報告は、大きな自然災害が起きた中、設計関係者の過失が
死亡を招いたとして有罪判決を得るには、証拠は不十分と判断するものだった。


遺族たちは今、どう思っているのか?
横田さんは、今でも娘の沙希さんの部屋をそのままにしている。
部屋には、家族みんなが出かけるたびに買ってきた娘へのお土産でいっぱいに。


そして、遺族を代表して、2月22日に開かれる、
クライストチャーチでの追悼式に毎年参加している堀田さん。


現在、CTV跡地は、何もない状態で小さな献花台だけが残る。


地震から8年。
遺族はまだ、一度たりともCTV建設に関わった人たちから謝罪を受けていない。


今年、クライストチャーチ市長が来日し、富山を訪問する予定だという。
遺族は、亡くなった子どもたちが少しでも報われる行動を期待している。


平成が終わっても、この悲しい出来事は決して忘れてはいけない。

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