◆ 今井正人さん
福島県出身。小高中、原町高から順天堂大学へ。1年時は2区。2年時からは5区・山上りを務め、3年連続区間賞に輝き、当時の区間記録を打ち立て「山の神」と称された。卒業後はトヨタ自動車九州に進み、2015年の世界選手権北京大会の日本代表に選出されるなどマラソンで活躍。
中学まで野球をしていましたが、子どもの頃から家族で駅伝やマラソンを見ており、箱根駅伝のいちファンでした。福島の先輩である藤田敦史さん(現・駒澤大学監督)は憧れでしたし、順天堂大学にも三代直樹さんやクインテットと呼ばれた世代がいて、順大は強いという印象がありました。
高校で陸上を始めてからは“箱根駅伝に出たい”と思うようになり、箱根駅伝に出場することが現実的な目標になりました。
順大では1年生で花の2区を任せてもらいました(第80回)。
前半は浮き足だってしまい、なかなかリズムに乗れませんでしたが、後半になるにつれ、力強く蹴る感覚が戻り、終盤に盛り返すことができました。
区間10位の走りはほろ苦くもありましたが、手応えもありました。4年間2区を走って、他大学のエースと勝負していくんだという思いを強く持ちました。
しかしながら、2年生から5区の山上りを任されるようになります。
実は1年時の夏の士別合宿で澤木(啓祐、名誉総監督・顧問)さんから「お前は5区だ」と言われたことがあったんです。2年生の秋にはなんとなく5区を言い渡されるのかなと感じていました。
気持ちとしては4年連続で2区を走りたかったのですが、“僕が5区を走ることがチームにとって最良の選択肢であるなら”と考えると、“よし、やるぞ!”という気持ちになりました。
それに正式名称が『東京箱根間往復大学駅伝競走』なのに、『箱根駅伝』のほうが一般的です。その“箱根”の地を走るのだから、すごく注目してもらえると思いました。
2年時の箱根駅伝(第81回)は4年間のなかで最も会心の走りだったと思います。
本格的な上りに入ってからは“平地の走りをどこまで続けられるか”という意識で臨み、宮ノ下や小涌園前を走っている時も、“このまま上りが続いても、どこまでもいけるんじゃないか”という感覚がありました。それほど余力があったので、終盤の下りもしっかり走れました。だから、あの結果(従来の区間記録を2分17秒も更新する1時間9分12秒の区間新記録)を出せたのだと思います。
3年生の時(第82回)は10月に腓骨を疲労骨折し、故障明けだったので、“なんとか走り切れれば”という思いでした。でも、先輩方からは「区間3番以内でいいから」と言われていました。求められるものが高かった……(笑)。
その年に5区のコースが延伸。その上、レース当日は雨天という悪コンディションでしたが、僕はそれらをプラスに捉えました。前年の自分と比較しなくていいので、気持ちが楽になりましたし、雨のため自分のリズムに集中して走れましたから(今井さんは2年連続5区区間賞で順大は往路優勝を果たした)。
4年生の時(第83回)は区間新記録を樹立しましたが、4年間で最も苦しかったです。一緒にスタートした北村(聡)君(日本体育大学)を意識し過ぎたのもあって、想定よりも前半を速く入ってしまい、後半が伸びませんでした。さらに、下りに入ってから軽い肉離れを起こし、“なんとかゴールまで運べたらいいな”と思いながら走りました。
(区間新記録で3年連続の区間賞を獲得し)“山の神”と呼ばれましたが、そもそも山の神は「ここには山の神がいますからね」という北村君のコメントが最初でした。僕自身、自分を“山の神”だなんて思ったことは一度もありませんし、たまたまその時に自分が区間1位だったからだと思っています。
ですが、河村(亮)アナウンサーが「山の神、ここに降臨」という実況をしてくださったおかげで、皆さんに自分のことを知ってもらえたし、すごくうれしかったのを今も覚えています。
結果が悪いと厳しいことも言われますが、注目されるのは競技者としてうれしいですし、モチベーションにもなります。“山の神”の名に恥じないよう、もう一度皆さんに驚いてもらえるような結果を出したい。そういう思いで、今も練習に励んでいます。
4年生では悲願の総合優勝を成し遂げました。
僕らの代は有力選手がそろっていて、入学前の新人合宿で“仲村明さん(駅伝監督)を胴上げするぞ”とみんなで話したのを覚えています。4年間で複数回優勝したいと思っていたのですが、なかなか優勝に届きませんでした。
3年時の箱根前のチームミーティングで、澤木先生にこんな言葉をかけられました。
「3日後に優勝するか、368日後に優勝するか、それを決めるのは君たちだ。メッキでもいいから、自分たちは金色だっていうことを相手に見せないといけない」
その言葉は心に響きました。
その年は終盤にアクシデントもあり、優勝を逃しています。悔しさを味わった一方で、優勝争いをできたことが“俺たちはできる”という自信にもなりました。
ただ、自分たちはメッキに過ぎなかったのも事実。メッキではなく、本物の金になって戦わなくちゃいけないんだと強く実感しました。
最後の1年間は常に優勝を意識していました。勝って当たり前という意気込みで、チームとして“どういう勝ち方をするか”にこだわりました。
5区の僕で逆転し、そのまま逃げ切りましたが、最後まで油断せずに一人一人が“自分がやってやるんだ”という気持ちを持った走りを見せてくれたのは心強かったです。
9区の長門俊介(現・順大駅伝監督)や10区の松瀬元太は、自分たちで逆転して優勝する筋書きを思い描いていたようですが(笑)。
箱根駅伝は大学生の時にしか経験できないこと。箱根駅伝があったから、仲間と思いを共有できたし、熱くなれました。僕は出し惜しみせず、大学4年間に全力を注いだからこそ“やりきった”という思いがあります。だから、卒業後に次の目標に向かうことができました。箱根駅伝があったから今頑張れる。そう思っています。
(写真2枚目:長田洋平/アフロスポーツ)