◆ 上田誠仁さん
1959年生まれ。順大で箱根駅伝5区を3度走り、第55・56回大会では区間賞を獲得、2度(第55・57回大会)の総合優勝に貢献した。卒業後は地元香川県で教職に就くも、順大監督だった澤木啓祐の推薦により26歳の若さで山梨学院大監督に就任。第63回大会で箱根駅伝初出場を果たし、以降3度の総合優勝に導いた。現在は山梨学院大スポーツ科学部教授・陸上競技部顧問。また、関東学生陸上競技連盟では駅伝対策委員長を務めている。


 世の中の移り変わりが激しいことのたとえとして「十年一昔」という四字熟語がある。それが100年ともなれば、時代の変遷は甚だしい変化を遂げていることに頷ける。
第1回箱根駅伝が開催された1920年に発売された「日本乃日本人」と1927年発売の「科学画報」という雑誌に、この時代の文化人や著名人が100年後の未来を想像して発表しているのが興味深い。
 100年後には「太陽エネルギーの蓄電が可能」と予測し(太陽光発電パネルなど)、雑誌の代わりに「畜音畜映装置」を使って購読視聴が可能と書かれている(インターネットによるニュースや動画配信)。さらにはいちいち会議室に集まらなくても世界各地から「離身電波」によって遠隔会議が可能となると予測している(3Dホログラム・ZOOMなどのシステム)。まさに令和の現在、私たちはそのようなシステムと環境の中で生活をしているといえる。今後はAIやIoTなど技術革新が続き、社会の変化が一段と加速することだろう。
 まったくもって便利になった時代だとはいえ、このように想像してみた。
 例えば現代まで箱根駅伝が存在せず、今この時に誰かの発案で、新春の2日・3日に国道を交通規制しつつ東京・箱根間を往復する2日間の大会を開催しようとしたら果たして可能かどうか。
 辣腕のイベントクリエーターが東奔西走したとしても、かなりの確率で困難を極めると思われる。“無茶だ・無謀だ・無理だ”と関係各所で突き返されるのではないだろうか。
 そのように思いを巡らせながら箱根駅伝が開催された大正10年ころの時代へタイムスリップしてみた。電話もやっと一部の地域のみで開通しただけの時代であったろう。明治5年に新橋・横浜間に初めての鉄道が開通して以来、明治末期までにはほぼ全国の幹線網が完成されるに至っており、大正9年には国有鉄道の総営業距離は9,982キロメートル、地方鉄道は3,227キロメートルに達していたという。
 江戸時代なら一日十里(約40Km)歩くのが普通だったそうで、箱根駅伝ならば二区の中継地点の戸塚宿あたりで宿を探したことだろう。鉄道開業当初の新橋・横浜間が約七里(30キロ弱)を約35分といわれている。一日かけて歩いた道のりがこのスピードで移動を可能にし、その鉄道網の発達とともに経済や生活の驚くべき変化の波の中で、金栗四三・沢田英一・野口源三郎たち先達はどのような熱量で箱根駅伝創設という牽引車となったのかと、さらなる想像の世界へと引き込まれてゆく。


大学時代は順天堂で箱根駅伝5区を3度走り、55回・57回大会の総合優勝に貢献(日刊スポーツ/アフロ)

■箱根駅伝100回大会であること
1919年 関東学生陸上競技連盟創立
1920年 第一回箱根駅伝開催
1923年 関東大震災
1941年 太平洋戦争勃発
1945年 東京大空襲 広島・長崎に原子爆弾投下 ポツダム宣言受諾
1964年 東京オリンピック開催
1993年 北海道西南沖地震
1994年 三陸沖地震
1995年 阪神・淡路大震災
2009年 リーマンショック世界的不況の波
2011年 東日本大震災
2015年 箱根山噴火
2020年 コロナパンデミック
2021年 2020東京オリンピック一年遅れで開催
2024年 第100回箱根駅伝開催

 上記以外に、幾多の台風や大雨による自然災害に見舞われながらも、箱根駅伝が今日まで開催されてきた。それは、大会を支えていただいた多くのファンの皆様方と、声援を送り続けていただいた方々の熱意に支えられてきたからだと思う。また、日本で一番古い歴史を持つ学生競技団体である関東学生陸上競技連盟が、綿々と継承してきた学生幹事を中心として、加盟大学の協力のもと大会の運営と開催に従事してきた伝統にあるのではないだろうか。
 参加各大学の熱き戦いの場を準備し、多岐にわたる大会運営のオペレーションを淡々と処理してゆく姿に、歴代のOB幹事も温かく支える風土が育まれている。だからこそ、連盟の各種専門委員会はもちろん、共催の読売新聞社、特別後援の日本テレビ放送網、後援の報知新聞社をはじめ特別協賛・協賛・運営協力に至るまで一貫して箱根駅伝を支え応援する姿勢がぶれないことも開催を重ねてこられた理由の一つであろうと捉えている。


日本テレビが中継を始めた1987年第63回箱根駅伝で、山梨学院大は初出場

■コロナ禍での開催を振り返る
 大会を運営するという観点で俯瞰すると、コロナ禍に翻弄されつつも様々な方々の協力をもとに懸命に大会運営に従事した関係者の献身があったこと、そして不自由な環境の中にあっても懸命に走破した選手やチームに思いを馳せてみると「箱根駅伝とは…」を語ることができると思った。
 根底には過去の歴史の中で、数々の困難を乗り越えてこられた先人の努力と大会運営の蓄積、それらを支える箱根駅伝が持つ風土があったればこそとの思いで振り返らせていただきたい。
 世情がどのように激変しようとも各大学の指導者がその責任においてチーム文化を育て、選手を育成し鍛え上げてくる。そこには濃密な時間の集積があり、葛藤や逡巡、感動と絶望などを織り交ぜたそれぞれのドラマが展開されていることに疑いはない。波風の一切立たぬチームなど存在せず、調子の浮き沈みに一喜一憂されることない日々など一日たりとも有り得ない。大会が日々近づくにつれライバルとの闘い以前に、プレッシャーという見えない魔物と闘わなければならない。そのような思いでスタートラインに立つランナーたちが母校のたすきをかけ、悔い無き走りが展開できるよう準備を整え大会を運営しなければならない。第97回箱根駅伝はそのような状況の中、1月2日朝8時のスタートの号砲を待っていた。
 2020年はどこにいこうと、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、「自粛」を選択しなければならない行動規範がついてまわった。そのような中にあっても選手は望む競技レベルの獲得を目指して工夫と試行錯誤の日々を送り、指導者の皆様方は日々研鑽を重ねつつ日々の指導に従事したことだろう。
 開催に向けては誰しもが我慢や不自由を強いられていた。
 箱根駅伝の実施決定に至るまでにも、各所から「競技会の中止」という発表を聞くにつけ、選手たちの慟哭の叫びが聴こえてくるようでもあった。それと同時に、中止の決断を迫られた関係者の無念も背に感じていた。この時期は進むも引くも最善であると胸を張れない消化不良感を箱根駅伝関係者は抱え続けていたのではないだろうか。
 どんなに我々が開催を願っても、すべての人が箱根駅伝を理解し応援しているわけではないということから目をそらしてはならない。迷惑なイベントと思っている人もおられるだろう。開催にあたり1月2日・3日に不便や被害を受けている地域の方々や競技そのものに魅力を感じない人もおられるでしょう。ただそうした方たちにも主催者としては少しでも理解を深めていただく努力が必要であり、常にその姿勢を持ちつつ行動することが重要であると再確認させていただいた。
 準備は日本陸連が策定した「ロードレース再開についてのガイダンス」にそって進められた。日本陸連からは6つの前提条件が示されており、これらをクリアしないと開催に向けての一歩が踏み出せない厳しい条件であった。当然主催者として克服すべき課題であるので感染症対策委員会を中心に取り組んだ。
 そしてさまざまな感染症対策にご協力いただきながら開催した箱根駅伝では、往復10区間217.1kmのコース沿道の観戦者数が、コロナ禍以前の大会121万人に対し、85%減の18万人であった。
 感染症という目に見えないリスクへのマネジメントは想像するよりもはるかに厳しく、いかなる専門家のアドバイスを反映させようとも、完全完璧が達成される保証はどこにもない。この状況の中、我々が再認識した事は、何事も個人の責任を果たすべく行動することと、人々の連携と協力なくして感染症対策は完結しないという至ってシンプルな人としての行動規範であった。
 100回の継走を紡いできた箱根駅伝に対する思いの糸は、過去の困難や苦難を乗り越え、このようなスポーツ文化を醸成しつつ今日に至っていると感慨を新たにした。


1990年代に黄金期を築き、山梨学院大を箱根駅伝3度の総合優勝に導いた

■「する・みる・支える」の視点から駅伝を見つめなおす
レースの目的は実力を競う「競走」である。それを支えるための審判や補助員をはじめ、大会開催に向けて様々な準備を進める連盟の学生幹事など多岐にわたる。する側と支える側との関係性は、協力しながら新たな形を作り上げる「協創」となる。コロナ感染禍にあっては、大学関係者や保護者には応援の自粛を要請し、沿道の観戦はご遠慮頂くお願いをさせていただいた。併せて取材方法や行動範囲の縮小と限定など厳しく規制させていただき、ファンやOBの皆様にはテレビなどの観戦で見守っていただいた。さらには、共に汗を流した陸上部員にも涙を呑んで現地応援を自粛してもらった。それでも互いの心象風景は共有されていたと思う。これも、「する・みる」の互いが協力して新しい形を作り上げた「協創」であったと感じた。準備から退場・機材撤収完了まで粛々と滞りなく終了出来たのも「協創」の賜物と言える。
 これらのすべての輪を重ね合わせると、共に新たな形を作り出そうとする心のつながりとして「共創」というスポーツが持つ力としての文化が醸成されてきた気がする。
 ウィズコロナの新時代と言われながらポストコロナとなった現在、この荒波を乗り切った「共創」の力を礎として、新たなスポーツ文化や価値観を生み出すことが望まれるだろう。まさしく100回を迎えた箱根駅伝は、競走を支える協創、そしてそれらを支える人々と共に創り上げる共創へと思いと行動を一致させることで、未来へと襷の継走が可能となるのではないだろうか。

■駅伝とは
駅伝とは、「信じる気持ちを未来に届けるチーム競技である」とお応えしたい。
信頼と絆は一朝一夕に作られるものではなく、チームの一員として喜怒哀楽の時間を共有し、互いの心象風景を共有することで築かれる関係性の中で育まれてくるものだろう。
片道100kmを超える距離を5区間に分け走る。選手も付き添う部員も、応援を担当するチームメイトもそれぞれの持ち場で自分の責任を果たす。選手同士がアイコンタクトをかわせるのは中継点での襷渡しの一瞬か、沿道の応援地点で声をかける刹那の時間だけである。遥か先で待ち受ける選手と中継点を目指す選手も互いにそれぞれの心象風景を垣間見ることができるはずだ。
だから信じて待つ。そして信じて走る。

■ユニフォーム・ゼッケンナンバー・襷とは
駅伝選手が身に着けて走るユニフォーム・ゼッケンナンバー・襷はこのように捉えている。

<ユニフォーム=自信と誇りの象徴>
胸に大学名がプリントされ、そのチームを象徴するチームカラーもしくはスクールカラーのランニングシャツを身にまとう。
代表選手としてユニフォームに袖を通すとき、日々の努力が“やったふりやつもり”でなく、常に何のためにやるのかを思考し挑戦し続けた積み重ねが自信として身についてゆく。チームの歴史を振り返った時、胸を張れる日々を送ってきたならばそのユニフォームで走ることを誇りに思える選手が走る。

<ゼッケンナンバー=自覚と責任の象徴>
その区間を走ることが明記されたナンバーは、その区間を走る選手にのみ与えられる。途中いかなることがあろうとも責任を全うし次の区間へと襷を引き継がなければならない。途中交代ができない競技であるがゆえに、任された区間を走破する鍛え抜かれた肉体と不屈の精神は、そのことを自覚し責任を全うしようと精進を重ねたランナーが持つ力である。

<襷=団結と絆の象徴>
 タスキを作る布を織り上げるとすれば、縦糸がそれぞれのチームに与えられた365日の時間軸である。横糸はチームメイトで紡いできた、日々の"志"であるといえる。
 縦糸がどのチームにも平等に与えられた時間軸とすれば、横糸の"志"が、紡ぎ方の差を生むのかもしれない。その差は託す事を、頼ることと履き違えないことに始まり、チームを支えてくれる人々への感謝の思いを込める事により、やがてチーム力となって大会での結果として反映される。それが駅伝だろう。
 多くの方々からの励ましを受け、力を育むことができるチームは、感謝の心を一緒に織り込んでいたからかもしれない。


現在は関東学連の駅伝対策委員長として箱根駅伝の準備に奔走。記録会では場内アナウンスも担当する

■学生補助員(黄色いジャンパーで沿道の皆様方と向き合う彼らへ) 
沿道やテレビ中継で激闘を繰り広げるランナーに視線はくぎ付けになることでしょう。
それでも画像に映り込む黄色い補助員ジャンパーを身にまといランナーに背を向けて立つ彼らのことを知り、彼らのことにも思いを馳せていただきたい。
箱根駅伝をより深く理解していただくために。
 彼らは決して走りくるランナーと視線を交えることはない。コース整備補助員として沿道の観衆に向かって立ち、ランナーが来ても声援を送ることもしてはならず、選手に振り返って業務をおろそかにしてはならないこととなっているからだ。
箱根駅伝の沿道に立つ黄色いウェアーの走路補助員は、箱根駅伝出場校及び予選会に出場した大学から関東学連に登録している部員数の3割を目処に派遣依頼して協力していただいている。おおよそ65~70大学から約2,000名の補助員が往路・復路併せて217.1kmのコースの安全確保のためのサポートにあたる。すべて陸上競技部員である。
ちなみに白い色のウェアーを着ている走路審判員は東京陸上競技協会から約300名、神奈川陸上競技協会から約700名、警備のSECOMが約900名と、合わせて2000人規模で大会運営に従事している。さらには、警視庁・神奈川県警からおよそ2000名の警察官が、交通規制及び道路警備と重要な役割を果たしていただいている。警察官は正月の間、初詣や年始行事の交通規制や雑踏警備など人員を割かなければならない。それでも、箱根駅伝運営のために協力していただいている。100回続けてきたからとて、これが当然のことだと受け止めてはいけない。
 学生走路補助員(黄色のウェアーを着る学生陸上競技部員)はランナーが駆けてくるコースに背を向け、両手を水平に広げ背筋を伸ばして立っている。彼らの中には母校のユニフォームを身にまとい、チームの襷を肩にこのコースを疾風のように駆け抜けることを夢見た選手もいることだろう。昨日まで同じグランドでチームメイトとトレーニングに汗を流していた部員も含まれていることだろう。
 怪我や故障に苦しみ、いっそ辞めてしまおうと逡巡しつつも、最後まで諦めずに競技を続けこの日を迎えた者もいるだろう。絶望や挫折、敗北やスランプはスポーツの世界には当然の如く訪れる。過酷な現実を受け止めて、乗り越えてきた者たちの背中がそこにあるのだ。彼等のウェアーの背中には箱根駅伝のロゴがプリントされている。コース上に整然と並んで両手を広げ視線は沿道に向けられてはいる。それでも、箱根駅伝を駆けるランナーたちにとって、彼らは同じ大学生としてこの大会にかける思いと誇りを共に刻みながらゴールへといざなう誘導灯のような存在であるはずだ。
この後姿は永遠に心に刻まれ色あせることなく思い起こしてほしい。

■「闘志を抱きて丘に立つ君たちへ」 ~学生競技者へ~
時の流れの中をチームメイトと共に過ごし、喜怒哀楽の心象風景を共有する。
時の流れは、時に厳しく無常に過ぎ去り、君達に、絶望と挫折の深淵を体験させる。
時の流れは、時に優しくたおやかに過ぎ去り、君達に、安息と思索の広がりを与えてくれる。
時の流れは、時に激しく慟哭の中をさまよい、君達に、忍耐と打開の知恵を授けてくれる。
時の流れは、時に強く感動と感謝の連鎖を生み、君達に、凛として生きる事の大切さを気付かせてくれる。
より速く、より強く、より逞しく。人が持つ能力の限界に挑む真摯な姿は、
いかなる文豪の書き綴る壮大な叙事詩であっても、書き尽くせない奥行きのあるドラマを生む。
それぞれが持つ1年間という時間軸が縦糸ならば、
夢や希望をかなえるために、励まし労わりあい
それぞれが持つ志を、日々の横糸として紡ぎ織り上げた布こそが襷である。

スポーツの醍醐味は、“不確定な結果に対して不安定に揺れ動く心を自らの意思でコントロールし、判断・決断・実行に移し結果につなげるところにある”という事をお伝えし、
2024年1月2日午前8時東京大手町読売新聞社前、第100回東京箱根間往復大学駅伝競走
凛として一瞬の静寂の中、スターターを務める関東学生陸上競技連盟有吉会長の号砲を待つ!