◆ 神野大地さん
愛知県出身。中京大中京高校から青山学院大学に進学。箱根駅伝では2年時に2区6位。3年時に5区で区間記録を樹立し、チームの初優勝に貢献。4年時は故障明けながら5区2位と好走し、チームは連覇を果たした。実業団のコニカミノルタを経て、2018年からプロランナーとして活躍している。
高校に入学した頃はそんなに実力がありませんでしたが、高校2年生になって少しずつ力が付いてきて、関東の大学にも声をかけてもらえるようになりました。最初に誘ってくれたのが青山学院大でした。とはいえ、当時はまだ、箱根駅伝は“目標”というよりも“夢”のような位置付け。青学大に進学したのも、4年間頑張ったら1回は箱根駅伝を走れるかもしれない、と思ったからでした。
ところが、世代トップを走っていた久保田和真をはじめ実力者の入学がどんどん判明していきました。同期が初めて集まった際には“俺らが4年生になったときに三冠をしようぜ”という目標を立てました。
“1回走れればいい”という目標はずいぶんと高いものに変わりましたが、これだけ頼もしいメンバーが集まったのだから、なんとなく実現できそうな気がして、ワクワクしたのを覚えています。
入学時の5000mのタイムは学年で3番目。それでも1年時は練習に付いていくのがやっと。体重が41kgしかなく体ができていなかったし、怪我もあって駅伝のメンバー争いには加われず、大学のレベルの高さを痛感しました。同級生の久保田や小椋裕介(現・ヤクルト)は1年時から活躍していましたが…。
1年目の箱根駅伝での僕の役割は1区の選手の付き添いでした。
1月2日、早朝4時台に原晋監督と2人で宿舎からスタート地点まで歩いて向かうと、夜明け前だというのに、沿道にはすでにお客さんがいて、スタート地点では準備が進んでいました。原監督から「この景色を覚えておきなさい。来年は君が必ず主力になって走りなさい」と声をかけられ、その光景を目に焼き付けました。そして、“自分も来年は出たい”という思いを強くしました。
2年目は春先から好調でトラックでも自己記録を大幅に更新しました。夏には実業団の合宿にも参加させてもらい、すごく良い練習ができて、どんどん力が付いているのを実感できました。1年目を考えると、2年時の1年間の成長度合は、想像を超えるものだったと思います。
そして、初めての箱根駅伝では2区を任されます。チーム内には僕よりも強い選手がいたので、適材適所を考えてのことだったと思います。2区のコースは本当にタフで、ラストの3㎞の上りはテレビで見るよりも傾斜がきつかったのですが、100%に近い力を出すことができたと思っています。
区間6位と悪くはない結果で、チームも総合5位と上々の成績でした。ですが、同時にまだまだ上がいることを思い知らされました。入学時に三冠の目標を立てたものの、本当にあと2年で優勝まで辿りつけるのかと半信半疑になっていました。
そんななか新チームがスタート。1学年上の先輩方が掲げた目標は“箱根駅伝優勝”でした。正直、無理ではないかと思ったのですが、先輩方は本気でした。当時、部のルールが疎かになりかけていたのを徹底するなどし、部をまとめてくれました。チームの雰囲気も少しずつ変わっていき、夏を迎える頃には、箱根駅伝優勝が“夢”ではなく“目標”として狙える領域に来ているのを実感できました。
その年の箱根駅伝でも、僕は2区を走るつもりで準備を進めていました。
5区は後輩の一色恭志(現・NTT西日本)が務める予定でした。2区は終盤の戸塚の壁の攻略が鍵となるのでその対策として坂の練習も行っていたのですが、5区を想定した練習で僕のほうが速かったんです。それで僕が5区に起用されることになりました。僕自身も、自分が5区を走れば優勝に近づくと思ったので、異論はありませんでした。
目標は1時間18分30秒に設定しました(当時の5区は23.4㎞)。十分に区間賞を狙えるタイムです。柏原竜二さんの記録(1時間16分39秒※その年にコースの一部が変更したため参考記録)は領域が違うと思っていたので、全く意識していませんでした。
走り始めると、目標より速いペースなのに余裕がありました。もらった位置も良かった(トップと46秒差の2位でスタート)。きついなと感じ始めた頃に、先頭を走る駒大の馬場翔大選手に追いつき、並走することで少し休むことができました。それが後半の走りにつながりました。
この日の箱根山中は、馬場選手が低体温症になったほど寒く、僕も失速してもおかしくはなかった。前半ハイペースで汗をかいていたので、宮ノ下辺りから冷えを感じていたからです。そんなタイミングで、小涌園の手前で太陽が顔を出しました。日射しが暖かかった。陽光のおかげで僕は低体温症を回避できました。
結果的に目標を大きく上回る1時間16分15秒で走りました。このタイムで走るには、運やタイミングも重要だと思っています。もう1回あの走りをしろ、と言われても、いろんな偶然が重ならないと難しいでしょうね。
そして、チームも初めての総合優勝を成し遂げました。大手町のフィニッシュエリアでアンカーの安藤悠哉を迎える瞬間は、たまらなかったですね。箱根駅伝は1年間の努力が報われる大会。箱根駅伝に懸けてきた分、その報いがあるのを実感しました。
4年目はキャプテンを務めましたが、本当に苦しい1年間でした。度々怪我があって、箱根駅伝は走れないかもしれないと覚悟していました。ところが、クリスマスの前日くらいに脚の痛みがなくなって、調子が上向いていきました。最後の最後に神様が手を貸してくれたのかなと思ったほどです。
みんなも僕が1年間苦しんできたのを分かっていたので、仲間たちは5区の僕に“先頭でタスキを渡そう”という気持ちで走ってくれました。一番でタスキをもらえたことで、僕も安心して走ることができました。前年の走りには及びませんでしたが、状態を考えるとその時の100%以上の力は出ていたと思います。そして連覇を果たすこともできました。仲間には感謝しかありません。
箱根駅伝は本当に人生を変えてくれました。それまでは“ただの人”だったのが、一晩で大きな注目を集めるようになりましたから。
今もたくさんの人に応援していただいています。そういう方々に心の底から喜んでもらえるような結果を出せていませんが、あの箱根があったからこそ、“まだやれる”とか“こんなもんじゃない”という気持ちを持って競技を続けることができています。
箱根駅伝は、僕にとって走る原動力。あの箱根の結果で人生が変わったから、僕は今も走り続けることができています。