◆ 三代直樹さん
1977年島根県生まれ。中学はソフトテニス部で、松江商業高(島根)に入学し陸上を始める。3年時は5000mでインターハイで5位、国体で優勝を果たす。順天堂大学へ進学し、4年連続で箱根駅伝を走る。4年時には花の2区で1時間6分46秒の区間新記録(当時)を打ち立て、チームの総合優勝に貢献した。大学卒業後は富士通で競技を続け、2001年の世界選手権エドモントン大会に出場した。2008年に現役を引退。現在は富士通陸上競技部の長距離ブロック長として後進の指導に当たっている。
幼少時に箱根駅伝を見て、子どもながらに“こんなすごい舞台があるんだ”、と思ったものでした。高校から陸上を始め、高校3年の時にインターハイで5位、国体で優勝し、いろんな大学や企業から声をかけていただきました。箱根駅伝をきっかけに“陸上を続けるのであれば関東の大学で”と考えていたので、順天堂大学へ進みました。
高校3年の時、同期入学予定の選手と箱根駅伝前に順大の練習に参加したことがありました。
当時のエース・高橋健一さん(現・富士通監督)の最終刺激を一緒に行ったのですが、私はそこで一生懸命頑張り過ぎました。澤木啓祐監督が何か言っていたのですが、よく聞き取れず、「頑張れ」と言っているのと勘違いして、さらにペースを上げてしまったのです。すると、練習後に「ペースを乱した」と怒られ、「お前はおとなしく寮にいろ」と言われてしまいました。今となっては笑い話ですが、入学する前に謹慎を言い渡されたのは私だけではないでしょうか(笑)。
そして、その年の箱根駅伝で順天堂大学は途中棄権してしまいます。先輩方が悔し涙を流していたのが、すごく印象に残っています。同時に、新年度から順大の一員になる身としては“これは大変だな”という気持ちになりました。
1年生の箱根駅伝(第72回大会)は1区。大都会のものすごい観衆の中を走るので、緊張しました。“憧れの箱根駅伝を走れる”というワクワク感はなく、“絶対にミスはできない”っていう緊張感が強かったです。
(三代さんは区間3位と好スタートを切り、チームは総合3位でレースを終えた)
前年途中棄権で予選会から上がってきたチームでしたし、自分たちの戦力で3位を手にするのは難しいと思っていました。加えて、箱根前の12月に同級生を交通事故で亡くし、心中には複雑な思いがありました。それだけに、アンカーの先輩が3番目にフィニッシュに入ってきた時には、感慨深いものがありました。
2年生からは箱根駅伝で2区を任されることになります。当時の2区の区間記録保持者は渡辺康幸さん(早稲田大学OB、現・住友電工監督)が持っていました。私が1年生の時の4年生で、関東インカレなどで一緒のレースを走ったこともありましたが、康幸さんの走りは足音がしないんですよね。本当に飛んでいるかのようで、まさに雲の上の存在でした。
第73回大会の往路は強い向かい風に見舞われました。2区の区間1位でも1時間11分で、私は1時間13分で区間8位。康幸さんの区間記録は1時間6分台ですから、悪条件だったにせよ、違う距離を走っていたんじゃないかと思ったほど康幸さんのすごさを痛感させられました。ただ、雲の上の存在であっても、卒業するまでに康幸さんのレベルまでいきたいという思いは持っていました。
4年生で迎えた第75回大会は、3回目の2区。私自身のレベルも上がっていましたし、ペース配分も心得ていましたが、2区のコース自体がきついので、区間記録を更新できる自信があったわけではありません。キャプテンとして最後の箱根駅伝となるので、私のところでトップに立ち、チームを勢いづけるということだけを考えていました。
私がマークしていたのは、山梨学院大学の古田哲弘君と日本大学の山本佑樹君、1学年下の2人でした。2人とは勝ったり負けたりしていたので怖かったです。1区を走った1年生の岩水嘉孝が頑張って区間8位で持ってきてくれましたが、1つ前の7位に日大・山本君、1つ後ろ9位に山梨学院大・古田君がおり、正直、この並びは嫌でした(笑)。
私は普段は細かくタイムを設定しませんが、この時は入りの1kmを2分50秒ぐらいと決めていました。実際には2分45秒。5秒先にスタートした山本君にも1kmまでに追いつきました。無理したわけでもなく、楽にいけたので“調子は悪くない”と思うことができました。先頭争いにもすぐに追いつけそうだったので、これはもう“行くしかない”と思いました。(2.6kmで先頭集団は日大・山本選手、駒大・佐藤裕之選手、東海大・諏訪利成選手の4人に。最後は佐藤選手との一騎打ちになり、17kmで三代さんが突き放して決着した。)
20kmまでは康幸さんのタイムよりも遅かったんです。2区はラスト3kmから二度の上りが待ち受けます。過去2回走ったはずなのに、記憶が飛ぶほどきつく対策のしようもありません。攻略法を1つ挙げるなら、権太坂を越えて下りに入ってから“休む”という意識をしっかり持って、呼吸を整えることでしょうか。
最後の箱根は、きつくても死ぬ気で走ろうと覚悟を決めていました。走り終えた時には、力を出し切り、時計を止める余力もなかったので、自分が区間新記録を樹立したことは、すぐには分かりませんでした。付き添いの同級生が中継所で迎え入れてくれて、私の腕をつかんで時計を覗き込むのですが、1時間7分、8分……とタイムは進むばかりです。最初に区間記録だったと教えてくれたのはチームスタッフでした。正直、半信半疑でしたが、力を出し切った結果、記録も付いてきて、“やりきった”という達成感がこみ上げてきました。むせび泣いているところがテレビに映り、後で見た時に恥ずかしかったんですけど、高揚していました。
その当時、優勝争いはYKK(山梨学院大、神奈川大、駒澤大)と言われていて、その一角を崩し、3位に入ることがチーム目標でした。まさかここまでやってくれるとは!
(結果は、9区の高橋謙介選手が区間新記録の快走で駒大を逆転し、順大はそのまま逃げ切って10年ぶりの総合優勝を果たした。)
アンカーの宮崎展仁を迎える時には、みんなで肩を組んで校歌を歌い、宮崎コールをしました。これまでなかなか駅伝に縁がなかったので、大学生になり一番狙っていた箱根駅伝という舞台で総合優勝を果たし、味わったことのない嬉しさにものすごく興奮しました。駅伝はみんなが力を合わせる競技で、チームの優勝こそ一番の醍醐味だと思っています。みんなで成功体験を共有し、感動を分かち合いました。
また、フィニッシュ間際に澤木監督がいらっしゃった時には、4年間のことが走馬灯のように頭をよぎりました。厳しい指導でしたが、澤木監督に付いてきて良かったと思えた瞬間でした。
心残りなのは、最後の年に駒澤大学の藤田敦史君(現・監督)と2区で勝負できなかったことです。ロードでは僕がずっと負けていたので、最後は直接対決で勝つ準備をしてきました。(1〜3年時の箱根駅伝では同じ区間を走り、全て藤田さんが1つ上の順位だった。)
箱根駅伝は自分のことを世に知らしめてくれたコンテンツです。記憶が飛びそうになりながらも区間記録を作ったことは、社会人になって陸上を続けていく上でも自信になりました。その後の人生で、壁にぶちあたった時にも、箱根の経験はその壁を乗り越えるための糧になっています。
私は箱根駅伝を走りたいと思って頑張ってきて、最後は自分の力を完全燃焼でき、満足して4年間を終えることができました。苦しい時も、うまくいかない時もあると思いますが、今の学生の皆さんにも、自分が決めた道で完全燃焼してほしいなと思います。