◆ 今井隆生さん
日本体育大学卒業後、チームケンズでトライアスロンを2年続けたのち、埼玉県で中学の保健体育の教師となる。20年4月に自己啓発等休業制度を利用し、駿河台大に編入。4年時は同大の箱根駅伝初出場に貢献し、98回大会では4区を走り区間20位。22年より復職し、現在は鶴ヶ島市立藤中学校にて教員、陸上部顧問を務める。


僕は中学校の体育の先生にあこがれて、ずっと体育教師になりたいと思ってきました。高校では陸上長距離を走っていましたが、日体大に入学した時にトライアスロンに転向。大学卒業後は2年間実業団選手としても活動させてもらい、悔いなく競技を終われました。
その後念願の体育教師として働き始めましたが、どちらかというと自分の経験してきた指導は、上から言ってついてこさせるような形でした。しかし現代の子どもたちに合っていないなと感じ、何か変えたいなと考えていました。

実業団選手だった時に徳本一善監督と出会い、その後月1回ご飯に行くなど親交がありました。徳本さんに悩みを相談したところ「心理学を学んでみるのもいいのでは」とアドバイスをもらい、駿河台大に3年から編入して学ぶことにしました。駅伝部には、徳本監督からは直接の勧誘はありませんでした。でもいろいろ話しているうちに、監督と一緒にやってみたいなと思うようになりました。大人になってから、なかなか打ち込めるものに出会わなくなっていたので、もう1度そういう熱さを感じてみたいなという思いもありました。

とはいえ、1度大学に入り教員をしていた自分と学生たちでは経験値もバックグラウンドもまったく異なり、難しいなと思ったことは何度もあります。その中でもみんなで1つの方向を目指していかなければいけない。年齢は関係なくぶつかることも多々ありました。そういう難しい状況の中、同級生でキャプテンを務めた坂本大貴と入江泰世とは、自分のことを理解してくれる「仲間」となれたなと思っています。本当に2人には支えられました。

3年生の時はコロナ禍ということもあり、予選会が駐屯地の周回コースになりました。8位ぐらいに入れたという手応えはあったんですが、予想外の高速レースで15位で予選落ち。4年生の時は徳本監督が10年目の節目の年で、「箱根に出場できなかったら辞める」と言っていました。徳本監督とも、後藤宣広コーチとも親交が深かったので、僕は自分がなんとかしたいと思っていました。1回予選会を突破すれば変わるだろう。そしてその原動力となるのは自分しかいないと思っていました。

その気負いがありすぎたのかもしれません。練習はできていたのに、試合になると体が重くなり走れないという状態が夏以降続きました。予選会の走りも最悪でした。走り終わった時は11位で予選落ちしたと思っていました。どう計算しても11番だと思っていたし、徳本監督もそう思っていたようなんですが、坂本や清野、町田が「8番ですよ!」と言うんです。本当に8位で通過できて、うれしいサプライズでした。

「箱根駅伝の100年の歴史に新たな1ページを刻もう」を合言葉にやってきて、その目標は達成されてしまった。正直なところ、出場が決まった時点でほとんどの選手が燃え尽きてしまっていました。僕としても「31歳の教員が箱根駅伝を走る」ということで非常に注目されてしまいましたが、注目度と実力が比例していないことが本当につらかったです。

自分で言うのもなんですが、僕は「速くもないし遅くもない」選手なんですよ。5000mはいつも14分台前半で、ハーフは63〜64分台で安定して走れる。外さないけれど際立っているわけじゃないんです。けれど、大学としての初出場、キャリア、年齢などが重なって、「絶対に走らないといけないんだ」と義務感がものすごく強くなってしまいました。出場が決まる前も苦しかったですが、決まってから大会までの2カ月は本当に苦しかったです。いろいろなものを背負いすぎてしまいました。

あとからわかったんですが、坐骨神経痛にもなっていました。足が痛いなとは思っていましたが、後輩の前では一切口にしませんでした。練習も全部引っ張りました。「自分がチームを引っ張るんだったら、しっかりとやっている姿を見せないとついてこない」と思っていました。

はじめは5区を走る予定が、8区になり、7区になり、最終的に4区になりました。当日の調子も良くなかったですが、走る5分前に入江が電話をくれて「自分の分も走ってきてください」と言ってくれました。走り出してもやっぱり調子が悪く、本当にボロボロのレースだったと思います。徳本監督から15kmの声かけの時に「お前を使ったのは俺の責任だから、お前は思いっきり走れ!自分の思いを全部置いていけ!」と言われた時は、目頭が熱くなりました。本当に不甲斐ない走りでしたが、多くの人から否定される中で始まって、まさか2年後にこういう最後が待っているとは思いもしなかったので、走り終わった後は込み上げてくるものがありましたね。

箱根駅伝を走ったという事実は残りましたが、気持ちはすべてあそこに置いてきました。もう、過去のことになっています。今の目標は「箱根駅伝の思いを超える」ことです。赴任した学校で子どもたちとの出会いがあり、彼らが今、必死になって全国中学駅伝への出場を目指しています。彼らに新しい景色を見せてあげたいですね。今が一番楽しいです。本音ですよ。自分の中の監督は今でも徳本さんで、彼のイズムを継承していると思っています。他の人にない新しいアイディアで戦ってやろう、何か面白いことをやってやろう、と思っています。

過去のこととは言いましたが、走ったことを忘れることはありません。箱根駅伝を走って大きな1ページ、1歩を踏み出すことができました。本当に貴重な経験をさせてもらったし、うまくいかなかったこと、頑張ったこと、得たものを原動力にして新しい目標に向かっていけています。