1755
- 11月2日
-
オーストリア皇女マリア・アントーニア・ヨハンナ・ヨーゼファ、
ハプスブルク=ロレーヌ家のフランツ1世と
マリア・テレジアの娘に生まれる。
1770
- 4月19日
-
マリー・アントワネットと王太子の代人による結婚が
ウィーンのアウグスティーナ教会で挙行される。
王太子の代人はマリー・アントワネットの兄フェルディナント大公が務める。
- 5月7日
-
マリー・アントワネットのフランスへの「引き渡しの儀」が
執り行われ、オーストリアとのすべての係わりに永遠の別れを告げる。
このとき14歳。
- 5月14日
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マリー・アントワネットはコンピエーニュの森で王太子と
王家の人々に初めて対面する。
- 5月16日
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ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で結婚式が執り行われ、
続いてこの日のために落成したオペラ座で祝宴が開かれる。
1775
- 6月11日
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ランスの大聖堂でルイ16世の戴冠式。
1781
- 10月22日
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王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ誕生。
1785
- 2月1日
- ロアン枢機卿、「王妃の首飾り」をラ・モット夫人に渡す。
- 3月27日
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二男ノルマンディー公爵ルイ・シャルルの誕生。
ルイ・シャルルはやがて1789年に兄が亡くなると王太子となり、
1793年にルイ17世として即位することになる。
- 8月15日
-
ロアン枢機卿、「首飾り事件」事件で裁判にかけられることになり、
鏡の間で宮廷中の人々の面前で逮捕される。
1791
- 6月20日
- 国王一家、パリを脱出するもヴァレンヌで捕らえられ逃亡は失敗に終わる。
1792
- 8月13日
- 国王一家、タンプル塔に移送される。
- 9月3日
-
元女官長ランバル公妃、殺害される。
1754
- 8月23日
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ベリー公爵ルイ・オーギュスト、のちのルイ16世、
ヴェルサイユで生まれる。
1769
- 6月
-
ルイ15世、孫の王太子と皇女マリー・アンワネットとの結婚を
オーストリアに正式に申し込む。
1773
- 6月8日
- 王太子と王太子妃、公式にパリに入る。
1774
- 5月10日
-
ルイ15世の死去により、ルイ16世と
マリー・アントワネットが国王と王妃に即位することが宣言される。
- 5月24日
- 国王はマリー・アントワネットにプチ・トリアノンの領地を贈る。
1777
- 4月
-
兄のヨーゼフ2世がフランスを訪問。
このときマリー・アントワネットに夫婦関係について助言する。
1778
- 8月25日
-
フェルセンはイギリスとスカンディナヴィアに長く滞在した後、
ヴェルサイユを再訪し、王妃によって宮廷に迎えられる。
- 12月19日
-
マリー・アントワネットはマリー=テレーズ・シャルロット、
通称マダム・ロワイヤルを出産。
1780
- 11月29日
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オーストリア大公マリア・テレジア、短い病ののち死去。
マリー・アントワネット、母の遺産として日本の漆器の小箱の
コレクションを受け取る。
1784
- 6月7日
-
スウェーデン国王グスタフ3世がハガ伯爵という偽名で
ヴェルサイユ宮殿に7月20日まで滞在。
このとき数多くの祝宴が開かれる。
フェルセンは親衛隊長として国王に随行。
1786
- 7月9日
- 王女ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス、通称マダム・ソフィーの誕生。
1787
- 6月19日
-
マダム・ソフィー死去。
マリー・アントワネットは
病弱な長子ルイ・ジョゼフの健康を気にかける。
長子は1788年初めにいっそう衰弱する。
1789
- 5月5日
- ヴェルサイユで全国三部会開会。
- 6月4日
- ムードンで王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ死去。
- 6月20日
- ジュ・ド・ポームの誓い。
- 10月5日
-
パリの民衆がパンを求めてヴェルサイユへ行進。
マリー・アントワネットはプチ・トリアノンでその知らせを受ける。
国王は狩猟から戻ると家族とともに宮殿に閉じこもる。
- 10月6日
-
明け方、群衆が私的アパルトマンになだれ込む。
マリー・アントワネットは難を逃れ、国王と子どもたちと再会。
国王一家はパリに連れてこられ、チュイルリー宮殿に住むことになる。
1793
- 1月16‐18日
- ルイ16世の裁判が結審し、国民公会は国王の死刑を採択する。
- 1月21日
- ルイ16世の処刑。
- 8月2日
- マリー・アントワネット、コンシエルジュリ監獄に移送される。
- 10月16日
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革命裁判所での判決のあと王妃の処刑が執行される。
38歳になろうとしていた時であった。