世界まる見え!テレビ特捜部
09/11/09 OA
命がけ!ベルリンの壁を越えた人々

今から20年前の今日、世界中の人々が信じられない光景を目にした。
それは家族を引き裂き、自由を奪ったベルリンの壁が
ドイツ国民の手によって破壊されたのだ。



ベルリンの壁建築のきっかけは、第二次世界大戦だった。
戦後、敗戦したドイツは東西の2つの国に分かれ、
資本主義国家であるアメリカ、イギリス、フランスの3カ国が西ドイツを統治し、
当時は社会主義国家として君臨していたソ連が、東ドイツを統治したのだ。
これが悲劇の始まりだった。
西ベルリンは、アメリカ等の国々から援助を受け、
街中に新しいビルが立ち並び豊かな生活を送り、
東ベルリンは、ソ連から十分な援助もなく、
街は戦争の傷跡を残したまま貧困に苦しんだ。
すると、自由もなく、貧困に苦しむ東ベルリンの人々が、
豊かな西ベルリンに逃れようと、亡命する者が年間20万人にもなったのだ。



しかし、東ドイツ政府は、それを黙認しなかった。
東ドイツの軍隊が、東ベルリンと西ベルリンの境界を急に封鎖。
そして、瞬く間に有刺鉄線が張られ、東から西に行けなくなってしまったのである。
しかしまだ、その長い境界全てが監視されているわけではなかったため、
警備兵の隙をついて、多くの者が西ベルリンへ亡命していた。



【ベルリンの壁出現】
東ドイツは、そんな亡命者対策に、西ベルリンと東ベルリンの境界に、
コンクリートで1.8メートルの壁を建築した。
それでも、東ベルリンの人々は亡命を諦めなかった。
東ドイツは亡命者が増えるのを恐れ、更に壁を改良したのだ。



【ベルリンの壁強化】
それは、東ベルリンの壁に近い建物を撤去することから始まった。
そこに監視塔を設置し、無人地帯と呼ばれる更地を作ったのだ。
この設備で、西ベルリンへ逃げ込もうとする亡命者を発見しやすくしたのだが、
この監視の目が届かないところから亡命する者が現れた。
彼らは、無人地帯の下に自分たちの手でトンネルを掘って
亡命ルートに選んだのだ。



1962年5月。
彼らは、西ベルリンの廃工場からトンネルを掘り始め、下水管の下を通すため、
深さ7メートルまで堀って、さらに東ベルリンに向けて掘り進めた。
そして実に、6ヵ月間かかり、遂に東ベルリンのアパートの物置に到達した。
このトンネルを使い、29名が西ベルリンへの亡命を果たしたのだ。
だが、このようなトンネルを10本以上掘られたことで、
東ドイツ軍は、ベルリンの壁を更に強化することとなる。



【ベルリンの壁要塞化】
1965年頃、トンネルが掘りきれない距離まで無人地帯の幅を広げ、
そして壁に近づけないよう、壁の手前に深い斜めの溝を掘り、
壁は以前の2倍、高さ3.6メートルにもなった。



しかし、ベルリンの中心にありながら、警備の甘い場所があった。
それは、東ベルリンと西ベルリンに接して流れる < シュプレー川 >。
その川を泳いで亡命しようとした男女二人は、
西岸まで10メートル程の距離を死に物狂いで泳いだ。
もちろん、警備艇では銃を構えていたのだが、
射殺する所を撮影されては問題になると思い、発砲出来なかったのだ。



更に1975年頃、二人の兄弟が驚くべき方法で亡命を果たした。
東側にいる弟が、ビルの屋上から釣り糸を結んだ矢を西側の兄の元へ放ち、
その釣り糸に繋げたワイヤーに、
滑車をのせて、ぶら下がって脱出したのだ。
大胆な手口だが、警備兵に見つかること無く
弟は無事、兄との再会を果たしたのである。
さらにこの兄弟、1989年にも、
東側に残されていた、一番下の弟 < エキ > がの救出作戦を決行。
2機の飛行機で東ベルリンを目指すと、
監視の目が届かないくらいに高度を上げてから着陸。
弟を乗せて、すぐ西に向けて飛びたち、無事救出成功。
わずか16分間の救出劇であった。
しかしその年、要塞と化したベルリンの壁が崩れる時がやってきたのだ。



【ベルリンの壁崩壊】
東ドイツ人は、同じ社会主義国のチェコスロバキアとハンガリーには
自由に行き来できたが、資本主義国の入国が難しかった。
しかし、ハンガリーの反政府運動が進み、オーストリアの国境が解放された。
すると、東ドイツ人は、チェコスロバキアからハンガリーに渡り、
国境が開放されたオーストリアに入国。
そこから西ドイツへ、亡命出来るようになったのだ。



そこで東ドイツ人は、危険の少ないチェコスロバキアの国境に殺到。
この事態に、東ドイツ政府はチェコスロバキアの国境を封鎖したため、
国民の不満は一気に爆発。
そこで東ドイツ政府は、 < 旅行許可の規制緩和 > を発令。
1989年11月9日、記者会見で発表した東ドイツ政府のスポークスマン、
< ギュンター・シャボウスキー > の一言でベルリンの壁が崩壊した。
20年経った今では、
壁の一部とその軌跡を示す敷石だけが忘れぬ思い出として残っている。



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