アール・ヌーヴォー様式の典型となったミュシャ様式は、特定の美術運動や芸術理論から派生したものではない。それは祖国独立の夢を抱くチェコ人のミュシャが、ウィーン、ミュンヘン、そしてパリという国際文化都市で画家としての修業を積むうちに、新しい時代の息吹に感応して創り出した独自のデザインの形式であった。
本章はミュシャ財団に遺るミュシャのコレクションと蔵書、写真資料などで構成する。「美の殿堂」と呼ばれたミュシャのアトリエは、モラヴィアの工芸品や聖像、ロココ風の家具、日本や中国の美術工芸品などで飾られ、こうした多種多様な美がミュシャのインスピレーションとなっていた。ここでは、モラヴィアの少年時代からポスター画家として名声を築く1890年代までのミュシャの足取りを追いながら、ミュシャ様式の成立に寄与した様々な要素を検証する。
ミュシャは基本的に「線の画家」である。正規の美術教育を受ける前の幼少期から青年期にかけての素描画に見られる、流麗な描線による日常と空想世界の描写は、のちに手がけるイラストやポスターに使われたリトグラフという版画技術による印刷表現には理想的なスタイルであった。それはまた、ジャポニスムを牽引した北斎などの日本の浮世絵師や、現代のマンガ家たちの表現法にも通じる要素である。
本章では、ミュシャのイラストレーターとしての仕事に光をあて、ミュシャが描線により、物語世界のエッセンスを読者にどのように伝えようとしたのか、その手法を考察する。ここで紹介する彼の仕事は1880年代にチェコの雑誌のために手がけた初期の作品から、アール・ヌーヴォーのグラフィック・アーティストとして手がけた本のデザインや、イラスト、雑誌の表紙絵などである。
より多くの人々が幸福になれば、社会全体も精神的に豊かになるという考えをもつミュシャが生涯こだわり続けたのは、特権階級のための芸術至上主義的表現ではなく、常に民衆とともに在ることであった。そのためにはイラストやポスター等の商業デザインは格好の手段である。普通の人々を美のもつ力で啓発するために、ミュシャは様々な手法を考案した。エレガントな女性の姿に花などの装飾モティーフを組み合わせ、曲線や円を多用しながら構築された独特な構図の形式―ミュシャ様式―は、画家が人々とコミュニケートするための「言語」であった。
本章は、サラ・ベルナールのための劇場ポスターや装飾パネルを見ながらミュシャ様式が成立してゆく過程と、その背後にあるミュシャのデザイン理論を検証する。さらに、プラハ市民会館の壁画に光をあて、ミュシャ様式が祖国での作品の中でどう進化していったかを考察する。
ミュシャがパリを後にして58年、その死からも24年の歳月を経た1963年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館でミュシャの回顧展があった。それと同時進行で、二部に分けられたミュシャ展がロンドンの2つの画廊でも開催された。冷戦のさなか、西側諸国ではミュシャの記憶は薄れ、パリ時代以降の作品は鉄のカーテンの彼方に埋もれたままであった。しかし、この回顧展がロンドンで巻き起こした旋風は、忘れられていたチェコ人画家の業績を、再び光の下によみがえらせたのである。
これに即座に反応したのが、当時、既成の概念に対峙する若者文化の中心地となっていたロンドンとサンフランシスコのグラフィック・アーティストたちであった。ミュシャの異世界的イメージと独特の線描写は、特にサイケデリック・ロックに代表される形而上的音楽表現と共鳴するものがあった。一方、よみがえったミュシャ様式は、新世代のアメリカン・コミックにも波及し、その影響は今日まで続く。
与謝野鉄幹が主宰した『明星』第8号(1900年)の表紙を飾ったのは一條成美によるミュシャを彷彿とさせる挿画だった。一條は『新声』に引き抜かれ『明星』の表紙は藤島武二が引き継ぐが、これを契機とするかのように明治30年代半ば、文芸誌や女性誌の表紙を時には全面的な引き写しを含め、ミュシャ、あるいはアール・ヌーヴォーを彷彿させる女性画と装飾からなるイラストレーションが飾ることになる。与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙デザインもこのミュシャ的装本の一つだが、重要なのはこれらの雑誌や書籍に用いられた言文一致体や、晶子が象徴する短歌は、近代の女性たちが、獲得したての近代的自我と自らの身体を「ことば」にした新しい表現だったということだ。つまり近代の女性たちの内面と身体の表象として選ばれたのがミュシャ様式の女性画であった。それは『明星』から70年余りを経た1970年代、少女マンガが内面と身体を発見し、ミュシャの系譜としての少女マンガの「絵」に再び導入するまでの、長い前史の始まりである。
ミュシャは近代の女性たちの内面と身体を表現するアイコンとして、この国の文化史の中にある。