沖縄慰霊…元捕虜『地獄の20日間』
渡口彦信(とぐち・ひこしん)さん、95歳。
この日、ある場所へと向かっていました。
○渡口彦信さん(95)
「このあたりじゃない?」
着いたのは沖縄本島南部にある岩場です。
1945年4月、日本で唯一住民を巻き込む地上戦となった沖縄。
当時18歳だった渡口さんも高射砲部隊の兵士としてかり出されました。
しかし、アメリカ軍に追い込まれ部隊は解散。
命からがら身を潜めたのが、この岩場でした。
それ以来初めてこの場所を訪れた渡口さん。
犠牲となった多くの住民や兵士に祈りを捧げました。
○渡口彦信さん(95)
「あの時はね 何とも言えない
人間であって人間でない」
当時の話を詳しく伺うために、渡口さんを訪ねました。
○櫻井
「命が助かった、その時はどういった経緯だったんですか」
○渡口彦信さん(95)
「(米軍が)投降を呼びかけしていたんです
『もう戦争終わりました、なぜ犬死にしますか』って
最後の通告ですよということでね」
“投降したら殺される“
その思いから岩場から出ることをためらったという渡口さん。
すると・・・
沖縄県公文書館所蔵
○渡口彦信さん(95)
「投降を呼びかける人の中に沖縄の人がいて
沖縄語で米兵に代わって放送しよったんだよ」
「方言で『ちけい ねーびらんさ』って
大丈夫だ、危険はありませんよという意味
やんばる(沖縄北部)ではね、みんな安定した生活送っているから
安心して『いじぃてぃめんそうれ』と
『いじぃてぃめんそうれ』って出てきてくださいという意味
沖縄の人が優しく言っているから、心が少し動いたんですよね」
しかし、一緒に隠れていた県外出身の兵士2人は岩場にとどまりました。
○渡口彦信さん(95)
「この2人がね
『あんたは沖縄(の人)だから出て行ったら』って勧めるもんだから出て行ったの
そうしたら(米兵が岩場から離れて)向こうに歩けって言うもんだから
でも、その間に2人はね火炎放射器でやられたんですよ」
○櫻井
「え!」
○渡口彦信さん(95)
「うん、2人が岩場から出なかったから」
○櫻井
「隠れている穴から出るか出ないかが分かれ道だったということですか」
○渡口彦信さん(95)
「そうそう」
この日は、1945年6月25日、沖縄での組織的な戦闘が終わった2日後。
※渡口さんがハワイへと送られた時の海岸
ただ、渡口さんの戦争は終わりませんでした。
捕虜としてハワイに送られたのです。
○渡口彦信さん(95)
「船のダンブル(倉庫)に押し込められてね
沖縄からハワイの真珠湾まで20日間、真っ裸でした」
暑い時期に換気もなにもない、地獄の20日間でしたよ」
○櫻井
「怖かったんじゃないですか?
だって何されるか分からないですよね、その後」
○渡口彦信さん(95)
「どうされようともう集団で仲間と一緒だからあきらめもあったんだ」
渡口さんが到着したのはハワイ・オアフ島の収容所。
強制労働の日々が続きました。
Japanese Cultural Center of Hawaii
○櫻井
「捕虜収容所での生活はどういった生活だった?」
○渡口彦信さん(95)
「全くなんの希望もなかったですよ ただ生きているだけで
真珠湾あたりの捕虜収容所から出て草刈りとか作業やりよった
真珠湾攻撃の時に投下した爆弾の破片がたまに小さいのが出てくるんですよね
それで監視の憲兵が我々の顔みたら
『ガッデムジャップ=ちくしょう日本人め』なんて言って
僕らが(真珠湾で)戦争したんじゃないのにね
恨みは僕にあったんだ、
まだ戦争中ですから
ハワイに行った時はまだ終戦してないんだから」
○櫻井
「現場のというか、
兵士それぞれに向けられたってことですよね」
○渡口彦信さん(95)
「そうそう
それもアメリカにすればこれは不意打ちされた
という恨みはあったからね。
向こうとしては、どうしようもないでしょう」
それから1年半の間、捕虜として過ごした渡口さん。
○櫻井
「捕虜になった渡口さんにとっては
1946年の暮れに解放された時が
終戦ということですか」
○渡口彦信さん(95)
「そうです。我々がハワイからね、
収容所から解放された日が終戦だと僕は思ってる」
やはりね、戦争というのはね
これはもう命も財産もみんな失うから
とにかく後世にね、若いのに
『戦争はやってはだめだよ、苦痛があるよ』ということを
身をもって味わっているからね
だから私は戦争についてはね どんなことでもやってはいかんよと」