前回は「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」展の展示作品から、印象派誕生前夜の様子を少しだけ見てみたが、今回はルノワールと並ぶ印象派のスター、クロード・モネを取りあげよう。
もしあなたがモネのファンなら、本展第2室の壁の半分を占めるモネの作品に、「おおっ!」と目を見張るに違いない。中でも、《日傘の女性、モネ夫人と息子》《ヴェトゥイユの画家の庭》《太鼓橋》という名作が並ぶ一角は圧巻だ。
半分庭師と言ってもいいくらいに、庭いじりが大好きだったモネは、人生の後半にパリ郊外のジヴェルニーに移り住み、そこで広大な庭の世話をしながら何百枚もの睡蓮の連作を描いた。右の《太鼓橋》も、1893年、モネが52歳の時に、自宅の向かいの土地を購入してつくった「水の庭」の風景である。睡蓮の浮かぶ池と、そこにかかった日本風の橋をあらわしたこのような絵を、モネは計18枚も描いているそうだ。
フランスの人気観光スポットとしても知られるためか、「モネといえばジヴェルニー」という印象を持っている人は多いだろう。が、実は、ここを終の棲家にする以前にも、彼は、引っ越すたびに花の咲き乱れる自宅の庭を描いている。本展でひときわ目を引く《ヴェトゥイユの画家の庭》も、そうした作品のひとつである。
満開のヒマワリの花の中で子供たちが遊ぶ、夢のように美しいヴェトゥイユの庭。階段の上にはお屋敷のような建物も見えるその風景は、フランス映画でたまに見る、裕福な人々の田舎の家を彷彿とさせる。
が……、モネの自宅と庭の絵を見るたびに、私は不思議に思っていた。
「お金がないのに、どうしてモネって、こんな庭つきの立派な家に住めたんだ?」
だいたい、モネが画家として成功し、経済的に豊かになったのは、《つみ藁》や《ルーアン大聖堂》の連作などが売れ始めた頃、つまりジヴェルニーの土地を正式に購入した50歳以降のことである。少なくともジヴェルニーに移り住む以前は、画商のデュラン=リュエルなどの援助を受けながら、つましい生活を送っていた。それなのに、こんな広い敷地に住めるお金はどこから湧いてきたんでしょう?
というわけで、ナショナル・ギャラリー取材の折、本展を担当する学芸員のキンバリー女史に聞いてみた。すると「あれはねえ、完全にモネのファンタジーの世界」と女史。
彼女によると、《ヴェトゥイユの画家の庭》を描いた頃、モネはとても小さな借家に住んでいた。あのヒマワリの咲く庭は、実は家の横にあった狭く細長い一角を、一番豪華に見える角度から描いているのだそう。ということは……、奥のお屋敷も、赤の他人のもののようである。しかもあとから図録で確認すると、この土地は家主から許可を得てモネが耕したものなので、正確には「画家(モネ)の庭」というわけでもない。つまりこの絵は、「こんな庭のある家に住みたい」というモネの願望が描き込まれていたのである。
「印象派の画家って、実はモチーフはかなり操作しているんですよ」とキンバリー女史は言う。
たとえば、本展にも出品されているルノワールの《シャトゥーの漕ぎ手たち》。ここでルノワールは、未来の妻となるアリーヌ・シャリゴや、友人の画家カイユボットなどをモデルに、「パリ郊外、のどかな日曜日の舟遊びの図」を描いている。陽光にきらめく川面にボートを浮かべ、舟遊びをする人々でにぎわうシャトゥーは自然がいっぱい、空気もおいしいステキな行楽地のように見えるのだが……。実はこのセーヌ河畔のシャトゥーやアルジャントゥイユ近辺、当時は大変な工業地帯で、周りの工場からひっきりなしに煙がもくもく上がっているような場所だった。図録によるところの「時代を超越した近代のアルカディア」は、工業地帯のど真ん中で描かれていたのである。
印象派といえば、戸外制作で光を追い、目に入ったものをひたすらカンヴァスに描いていくようなイメージがある。しかし、そんな印象の作品の中にさえ、画家の願望やファンタジーが上手に紛れこんでいた。絵を観て容易に「当時はこうだったのね~」なんて素直に信じ込むのは、ちょっと危険かもしれない。
アート・ライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」などでアート情報を執筆。
アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。