生まれ育った瀬戸内の淡路島から上京し、明治大学を卒業した深田公之(田辺誠一)が、小さな広告代理店に入社したのは、1959年のことであった。CM制作のためテレビ局に出入りするようになった深田は、阿久悠のペンネームを使い徐々に音楽番組の台本を手がけるようになる。広告代理店を退社し、フリーの放送作家になって本格的に活動をスタート。これが、日本の芸能史に燦然と輝くビッグネーム・阿久悠の第一歩であった。
放送作家の仕事とともに副業として行っていた作詞活動が実を結んだのは、1967年、30歳の時の作品『朝まで待てない』(歌・ザ・モップス)を書いた時。この曲でレコードA面の作詞家デビューを果たした阿久は、ごく普通の結婚生活をスタートさせる中、『ざんげの値打ちもない』(歌・北原ミレイ)、『また逢う日まで』(歌・尾崎紀世彦)、『笑って許して』(歌・和田アキ子)などヒット曲を連発していった。
その頃、日本テレビ音楽班では、あるトラブルが原因で、自らの手でスターを作り上げる新しいタレントスカウト番組を立ち上げる必要に迫られていた。
プロデューサーの池田文雄(及川光博)は、スタッフの古田真一(池内博之)、沢井周平(黄川田将也)、振付師の土居甫(榊英雄)らを集め、番組企画会議を行う。阿久は日本テレビ音楽班とのつながりで、芸能界に革命を起こすと意気込むこの会議に呼ばれていた。そして、芸能界をガラス張りにしたいと訴える阿久のアイデアで生まれたのが、その後のテレビに計り知れない影響を与えることになるオーディション番組『スター誕生!』であった。
この番組の特長は、決勝大会に出場したスター予備軍を、複数のプロダクションのスカウトマンが会場で指名するプラカード方式を採用したことだった。司会は、落選者を励ます役目も必要だとして萩本欽一(五辻真吾)に決定。
審査は阿久の他、都倉俊一(内田朝陽)、松田トシ(佐藤真弓)、中村泰士(増田俊樹)、三木たかし(俊藤光利)で行われた。出場者の合否判定は、審査員5人の点と、会場の観客の点の合計。審査は極めて厳正に、しかも公平に行われた。そして、最初のデビューを果たしたのが、第7回大会で合格し、決勝大会で13本のプラカードが上がった当時13歳の少女・森昌子(平塚あみ)。阿久が『また逢う日まで』で自身初のレコード大賞を受賞した翌年の1972年、森昌子は、『せんせい』の大ヒットでその年の歌謡大賞新人賞を獲得した。
その後、『スター誕生!』からは、桜田淳子(鈴木愛理)、山口百恵(星野真里)らがデビューを果たした。
だが、阿久には百恵の作詞をする機会はめぐってこなかった。百恵が『ひと夏の経験』で独自の輝きを持ち始めたとき阿久は、淳子に『黄色いリボン』を提供して対抗させたが、百恵のインパクトにはなかなか及ばなかった。
森昌子、桜田淳子、山口百恵が、花の中三トリオとしてテレビで大活躍する一方で、『スター誕生!』からは、岩崎宏美、伊藤咲子、片平なぎさ、新沼謙治らが続々とデビュー。そんな中、番組に出場したのが、根本美鶴代(高橋愛)と増田恵子(新垣里沙)の2人の少女だった。この2人が、後々、大人から子供にまで支持されることになるピンク・レディーだったのだ。
阿久と都倉のコンビはピンク・レディーで国民的ブームを巻き起こしていく。
歌謡曲とアイドルが最も熱を帯び、華やかであった時代だった。