「福島に帰って来た新男米」

地震の激しい揺れの影響を特に受けなかった村が、計画的避難区域に指定されてしまったために戻れなくなってしまった。現在は、DASH村にいた時とは違った生活をしているけれど、時として「もし村に戻っていたら、今頃どういう生活をしていたのだろうか?」と考えてしまう。もう作りかけていた「流し」を使っていただろうし、マンゴーも食べれていたかもしれない、コーヒーだってそろそろ味わえていたかもしれない。それ以外にもきっと新たに色々な事に挑戦し、変わり続けていたと思う。
草が伸び、葉は紅葉し、そういった自然現象は毎日変化しているが、DASH村自体の時間は3月11日から止まったままで静まり返り、作りかけのモノも中途半端な形で投げ出されているが、どうしようも出来ないのが現状だった。

ただ、DASH村からつながっているモノがある。それがDASH村オリジナル品種・新男米。 お米は時間が経つと発芽率や品質が落ちてしまうので、DASH村からは離れてしまうが新男米が絶えず、「つながる」と言う事はとても重要な事だった。昨年は米の勉強にと尋ねた日本一の米どころ、新潟県南魚沼市の鈴木清さんの田んぼに植えさせて頂いた。日本一の米どころだけあって、立派なお米が収穫出来た。この新潟から受け継いだバトンを今年は福島の地に戻し、DASH村から少しでも近い場所で育てる事にした。福島はDASH村がある土地。DASH村ではないけれど、福島で植えられると言う事は、特別な意味があった。




故郷に戻って来た新男米は、猛暑に小雨と色々と気を揉まされることが多かったけれど、無事に穂が出揃い、たわわに実ったのでひとまず安心した。そして、去年は出来なかったけれど、今年はDASH村で世話になった多くの人と田植えや稲刈りを行なう事が出来た。やっぱり、それは楽しかったし、嬉しかった。
しかし、福島県は福島でつくられた全ての米に対して、放射能検査を義務づけており、僕たちも福島で育てている以上、放射能検査を受けなければならい。万が一、ここで「もしも」の事が起きたら、半年間、積み上げ、こぎ着けた収穫だったのに、全て無になってしまう。やっぱり検査機を通るときはハラハラしたが、無事と証明されると一気に安心した。これで、DASH村でお世話になった方々にも心から食べてもらいたいと思った。

去年同様、明雄さんの畑に集まり、みんなで迎えた大収穫祭。こうやって、顔を合わせられる事が何よりだ。みんなで笑いながら食べるお米もまた格別だと思う。
そして、今年はそれだけではない。田んぼと平行して福島の地で作物も育てた。そこにはおなじみのトマトやピーマン、胡瓜の他に、熊本県を訪れ際に苗を頂いた大長なすも植えた。そして、そこに今度は長野県を訪れた際に発見したピンク色のハウスを建てた。
新潟県からバトンを受け継ぎ、生き続ける新男米、そして、畑には全国を農業研修しながら学んだ事を取り入れられた。福島県に戻り、続けられたと言う事は、そう言った積み重ねがあったからこそ。DASH村は離れざるを得なかったけれど、確実に得られたモノは沢山あったと思う。そして、来年もさらに色々なものを吸収し、13度目の稲刈りが出来たらいいな。

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