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ぶらりマンチェスターの旅 その2

2008.10.15

前回のブログで触れた「バスビー・ベイブス」。ご存じない方のために、マンチェスター・ユナイテッドを襲ったミュンヘンの悲劇について簡単にご説明します。

バスビーとは、マット・バスビー監督のこと。終戦直後という苦しい時代に、若手選手のスカウトや育成に力を注ぎ、イングランド最高の選手と称えられたダンカン・エドワーズやボビー・チャールトンなど多くの名選手を見出した。1952年にはリーグ初優勝を達成し、1956年からはリーグ2連覇。クラブ創設以来最強と言われた若きチームは「バスビー・ベイブス(Busby Babes)、バスビーの子供たち」と呼ばれるようになった。

ところが1958年2月6日、チャンピオンズカップ準々決勝に出場したバスビー・ベイブスを乗せた飛行機がミュンヘンで離陸に失敗。乗客43人のうち23人が死亡する大惨事となった。キャプテンだったダンカン・エドワーズを含む8名が死亡、2名が再起不能となり、当然チームは崩壊寸前。

その後のチャンピオンズカップ準決勝は、控え選手中心で臨み敗退した。

チーム再建は絶望的と思われたが、一時は生命も危ぶまれたマット・バスビー監督が奇跡的に生還。翌年現場に復帰を果たす。大きなけがこそなかったものの精神的ダメージの大きかったボビー・チャールトンも立ち直り、彼をチームの柱として立て直しに着手した。若手選手の目覚ましい成長もあり、1963年FAカップ優勝、1965年と1967年には国内リーグも制した。

そして、ミュンヘンの悲劇から10年後の1968年5月29日。チャンピオンズカップ決勝で、ベンフィカ(ポルトガル)を4−1で下し、10年前に成し遂げられなかった悲願を達成。

この4点のうち2点はキャプテンとなったボビー・チャールトンのゴールだった―。

この話をいつどこで知ったのかは記憶にないのですが、その時の感動は今でも消えません。これぞ奇跡ですよね!ボビー・チャールトンは今では気の良いおっちゃんみたいですが(失礼?!)その苦難の道のりを思うと尊敬してやみません。

私が留学した頃には、マンチェスター・ユナイテッドは金満クラブという悪評も高かったのですが、その人気にはやはり根強いものがありました。

という訳で、マンチェスターへと旅立った私。試合前日にはスタジアムツアーに参加し、ミュージアムも見学しました。

最寄の駅に着いてまず感動したのが、スタジアムのある通りの名前が“SIR MATT BUSBY WAY”。その通りを歩いて行くと、オールド・トラフォードの一角に、事故の犠牲者を追悼する祈念碑が見えてきます。さらに、スタジアムには事故の起きた時間で止まったままの時計がある―。

これだけでも感慨深いものがありました。

スタジアムツアーでは、ガイドさんとともにピッチ→スタンド→会見場→ロッカールーム→ヒーローインタビューの場所→選手が試合に出ていくトンネルを見て行きます。

中継などで見たことがあると思いますが、オールド・トラッフォードでは、ピッチ脇にベンチは置きません。ファーガソン監督や控え選手が座っている場所はスタンドにありダグアウト(野球と同じ)と呼ばれています。そこで写真を撮ると気分は監督ですよ!

チームの公式HPには「監督が試合中どこにガムをくっつけるのか探そう!」と書かれています(笑)


会見場は木目を基調とした立派な部屋でした。まるで由緒あるホテルのロビー!機能重視の日本のスタジアムは、これと比べるとさみしい感じがします。歴史の差かもしれません。

さらに、ロッカーから選手が試合に出ていく時のあのトンネルの内側へと移動し、気分はスタメン。ツアー参加者の誰かの発案で、みんなで一列になって入場しました。今となってはバカバカしいけれど、思わずそんな事をやってしまう雰囲気なんですよ!

ミュージアムには、今まで獲得したトロフィーや歴代のユニフォームが飾られているほかバスビー・ベイブスのコーナーがありました。当時の新聞などを見ただけでも鳥肌が立ちました。事故の悲惨さだけではなく、人々の悲しみが伝わってくるようでした。

ミュージアムとツアーで大人12ポンド(現在の価格)です。試合と合わせて、クラブの歴史にも触れてみてはいかがでしょう?



もちろん今の選手たちとバスビー・ベイブスは別物ですが…。あのユニフォームを着ている以上、やっぱりこの歴史や魂のようなものを背負って戦っているような気がします。12月に日本に来た際には、バスビー・ベイブスのことも思い出しながらご声援お願いします。