【アジア予選 激闘の歴史①】アメリカW杯予選 森保一監督が語る『ドーハの悲劇』裏側「あの瞬間、スローモーションだった」
※このインタビューは2019年に行われたものです
1993年に行われたアメリカW杯予選。「ドーハの悲劇」の裏側で何が起きていたのか、当時選手として出場していた現日本代表監督森保一さんと北澤豪さん、1968年生まれの同級生コンビが明かしてくれた。
日本代表を率いる森保一監督が、選手として出場したアメリカW杯予選。アジアに与えられた本大会出場枠はわずかに2つだった(※アメリカ大会の出場国数は24)。当時、W杯本大会に出場したことがない日本代表だったが、1992年にハンス・オフト監督が就任すると、同年に日本で開催されたアジアカップでは初優勝。1993年5月にはJリーグが開幕し、日本サッカー界が盛り上がりを見せる中、初のW杯出場への期待は高まっていた。
1次予選を7勝1分けの成績で首位通過した日本。カタール・ドーハでの集中開催となった最終予選、2つのW杯出場枠をかけて戦うのは、日本、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラクだった。
サウジアラビア、イランとの2試合を終えて1分1敗で最下位に沈んでいた日本だが、第3戦の北朝鮮戦には3-0の快勝。続く第4戦の相手は宿敵・韓国だったが、FW三浦知良のゴールで1-0と勝利し、連勝で首位に立つ。
勝てばW杯出場決定、負け・引き分けで出場権を逃す可能性がある、という運命の最終戦、相手はイラクだった。
北澤: 第4戦の韓国戦は、森保さんは出場停止。そして、出場停止明けの最終イラク戦。どんな心境で迎えた?(韓国戦は森保さんに代わり、北澤さんが先発出場)
森保: 韓国戦、キーちゃん(北澤さん)の魂のプレーを見ていて、そのままキーちゃんがイラク戦も出たほうがいいんじゃないかなって(笑)。もちろん自分が出たらやってやる、というのはあったけれど、勝った流れでそのまま、というのは選択肢としてあるのかなと。
北澤: その中で、「勝てばワールドカップ出場」という試合に出場しました。
森保: 自分がその試合でプレーできることを幸せに思ってプレーしました。勝ってW杯出場を決める、という試合で、メンバーの一人として、自分の持っている力をすべて発揮する、ということが大事だと思っていました。
中立地ながらもイラクサポーターが数多く駆け付け、アウェーの雰囲気が漂うスタジアム。運命の一戦、日本は開始早々の前半5分、エース・三浦知良のヘディングシュートが決まり先制。そのリードを保ったまま、前半終了のホイッスルが鳴る。
森保: 先制点が取れて、「やれるんだ」という風になって、でも追いつかれて、もう1点取らなくちゃいけないということで、みんなの心に火が付いた。
北澤: ハーフタイム、俺はウォーミングアップしていたからロッカーに行ってないんだよね。あのときのロッカーの雰囲気は?
森保: リードしてのハーフタイムで、とにかく落ち着きが無かった。みんなが好きなことをバーって喋っていて全くまとまらず、監督が「ちょっと大人しくしよう」みたいな感じだったと思うんですけど、監督が何を言っていたかも覚えてないです。みんな興奮しているから。
自分が今、あの時の経験を生かさなければならないのは、やっぱりハーフタイムに1回落ち着かないといけないということ。ずっと前半から走ってきたままで、メンタル的にもそのまま上がりきったままで。疲労回復をハーフタイムでできていなくて、やることも整理できていなくて。後半そのまま行くと、やっぱり最後まで持たないなって。
後半立ち上がりにイラクに同点ゴールを許すも、日本はFW中山雅史のゴールで2-1と勝ち越し、リードを保ったまま、後半アディショナルタイムに突入する。
試合終了間際、ほぼラストプレーという時間のイラクのCK。予想外のショートコーナーからのクロスに対応が遅れ、ヘディングシュートが決まり失点。2-2の同点となりほどなくして試合は終了。他会場でサウジアラビア、韓国が勝利し、得失点差で3位となった日本は、土壇場でW杯出場を逃した。ピッチ上では、選手たちが呆然と座り込んでいた。
北澤: 後半アディショナルタイムに入るまでは良い流れできていた。
森保: リスクを負わずにまずはこれ以上失点をしない、勝ちに持って行くために失点をしないで守備をしっかりしながらカウンターを狙う、という考えを自分自身は持って戦っていたと思うけど、最後の最後は「守るだけの守り」になっていて。ボールにプレッシャーもかからなくて、ゴール前に張り付いていれば守りになる、という精神状態になっていたかもしれない。
北澤: 最後のコーナーキック、ショートコーナーをやってくると思った?
森保: いや、全然思っていない。「あのとき、対処の仕方って何かあったのかな?」というくらい。勝っていて最後だから、みんなとにかく自陣を守れ、みたいな感じになっていた。でも誰も足が動いていないし、ボールにプレッシャーもかかっていないし、マークもちゃんとできていない、という状態。
北澤: あの時間帯にリスクのあるプレーをして、コーナーキックまで持って行かれたというのもあるよね。
森保: 最後の最後、しっかり守ってカウンターする、最後シュートで終わる、自分たちはちゃんともう一回陣形作る、ということが、例えば日本リーグとか、Jリーグとかだったらできていたかもしれないけど、あの究極の緊張感の中でそれができなかった、その経験値が足りなかった。
北澤: ゴールを決められた瞬間は覚えている?
森保: なんとなく。(三浦)カズさんが行って、そのあと自分がもっと寄せていれば、という。ショートコーナーだから、ボールの出所に行ってブロックして上げさせない、というのが、遅れた感じになって何となく行っている感じになって、自分の頭上を越えられて。振り返りながら、そこからはスローモーションで見えて、「あー、入っちゃった」みたいな。
そのあとも、取り返さなくちゃ、あと1点取らなくちゃ、という思いはあったけど、誰も体が動いていなかった。
悲願のワールドカップ出場へ。掴みかけたその夢は、最後の最後に手のひらからこぼれ落ち、サッカー界のみならず日本全国多くの人が打ちのめされたあの夜。
「ドーハの悲劇」この経験は日本サッカー成長の大きな糧となり4年後の「ジョホールバルの歓喜」へとつながっていく。