【アジア予選 激闘の歴史②】フランスW杯予選「ジョホールバルの歓喜」を生んだ 仲間との絆
※このインタビューは2019年に行われたものです
初めてW杯出場を決めたフランスW杯予選はまさに「死闘」だった。
アメリカW杯予選での「ドーハの悲劇」の雪辱を期す日本代表は、1次予選を首位で通過し、最終予選では、ウズベキスタン、アラブ首長国連邦、韓国、カザフスタンと同じグループBに入った。初戦、ホームでのウズベキスタン戦には6-3と快勝した日本代表だったが、第3戦、ホームでの韓国戦では、MF山口素弘のループシュートで先制するも、後半に逆転を許し1-2と敗れるなど、思うように勝ち点を伸ばせない。そして、第4戦のカザフスタン戦、後半ロスタイムの失点でドローに終わると、日本サッカー協会は加茂監督の解任、岡田武史コーチの昇格という決断を下した。
この予選で日本を初のW杯出場に導くゴールを決めた岡野雅行さんは、当時のチームの状況をこう振り返った。
Q. 当時のチームの雰囲気は?
- 最終予選になってから思っていた以上に勝てなくて、日本中から叩かれていたりしたので、出ている選手たちの中には、精神的に追い込まれて胃薬を飲みながら試合している選手もいました。自分は、試合に出ていなかったこともあって元気だったので、何か役に立てればいいな、と思って、みんなを元気づけるために、笑わせるためにいろいろやっていましたね。
Q. 監督が岡田監督に代わったときの反応は?
- 加茂さんが解任されることになって、選手全員がすごく責任を感じて、「やってやろう」という気持ちで結束力が高まった、というのはありました。
岡田さんは当時41歳だったと思うんですけど、最近一緒にお食事する機会があったときに、「よくあの時、監督を引き受けましたね」と言ったら「最初は断ったに決まっているだろ」とおっしゃっていましたね(笑)。
岡田武史監督が指揮を執ることになった日本代表は、ここから2勝2分けと巻き返す。首位の韓国に次いでグループBの2位に入り、マレーシア・ジョホールバルで行われるアジア第3代表決定戦(プレーオフ)に駒を進めた。
勝てばワールドカップ出場決定、というイランとの決戦に臨む日本代表だったが、岡野さんは、アジア最終予選で一度も出場機会を与えられていなかった。
Q. 出場機会に恵まれなかった状況をどう感じていた?
- とにかく試合に出たくてしょうがなかったですね。岡田さんに監督が代わっても試合に出してもらえなかったので、岡田さんの部屋まで「何で出してもらえないんですか?」と聞きに行ったら「お前は秘密兵器だから、最後まで取っておきたいんだ。いざとなったら必ず出すから、用意しておいてくれ」と言われました。
Q. 第3代表決定戦、試合前の心境は?
- 前日のメンバー発表のときは、「岡田さん、約束通り秘密兵器で入れてくれるよな」と、自分のことばかり考えていました。メンバーに入ってすごく嬉しかったですし、「やってやる」という意気込みはありました。その日は興奮して10分くらいしか寝られなかったです。
1997年11月16日、運命の一戦。日本は前半39分、MF中田英寿のパスからFW中山雅史が決め先制するが、後半イランに2点を奪われ逆転を許す。岡田監督は、城彰二と呂比須ワグナー、FWを2枚一気に投入。すると後半31分、中田のクロスから城がヘッドで決め、2-2の同点に追いつき、勝負は延長戦に突入。そしてついに“秘密兵器”が投入される。
Q. ベンチからどのような気持ちで試合を見守っていた?
- 当時イランには4人くらい欧州でプレーしている選手がいて、やっぱり強かったですね。先制点が入ったときはかなり盛り上がりました。「いけるぞ!」と。けれど逆転されて、「やっぱり強いな、イラン」という雰囲気で日本ベンチは全員下を向いてました。
Q. FWの2枚替えがあったが、呼ばれたのは城選手と呂比須選手でした。
- 逆転されてみんなが落ち込んでいるとき、自分だけは「よし来た!岡田さん、秘密兵器いますよ」という感じで岡田さんの前をビュンビュン走りましたね。「FWを2枚変える」と聞こえて、準備していたら、岡田さんが「城!呂比須!」と呼んで。「あれっ?」と。「秘密兵器って言ってませんでしたっけ?」って(笑)。
Q. 延長戦に突入し、ついに岡野さんが投入されました。
- 日本のサポーターの方たちも、何となく「またドーハの悲劇と同じ感じじゃない?」みたいな雰囲気になってきて。それまで「俺を出せ!」と思っていたんですけど、もう、完全に応援に代わりましたね。誰でもいいからゴールを決めてくれ、と。
そうしたら岡田さんが「岡野!」って呼ぶわけですよ。「ここはやめてくれ」と思いました。もちろん、“秘密兵器”と言ってくださって、嬉しかったですが、この状況はちょっと究極過ぎませんか、と。で、岡田さんのところに行って、何を言われるのかなと思ったら「入れてこい」。それだけでした。
延長前半から投入された岡野さん。その圧倒的なスピードを生かしチャンスを作るが、数々の決定機をものにできない。試合は2-2のまま延長後半に突入する。
Q. 延長前半、数多くの決定機がありました。
- 当時、練習の時から中田ヒデ(英寿)のパスが大好きで、すごく合っていたんですよ。なので、本能的に、ヒデがボールを持ったら走っていました。延長前半、ヒデがドリブルを始めたので走ったらやっぱりパスが出てきて、その瞬間、何かいろいろ考えちゃいましたね。「これいきなり決めたら大ヒーローになるな」とか。「最初のプレーだから思い切り蹴ろう」と思ったらゴールキーパーにキャッチされました。
その後もチャンスをつぶしてしまって。すると、急に現実に戻るんですよ。サポーターが金網越しに「お前何やってんだ!」と。「これは人生終わりだな」と思いました。あの時だけはサッカーを恨みましたね。なんでこんな思いをしてまでサッカーしなきゃいけないんだろう、って。
Q. 延長後半に向けて、どうやって気持ちを切り替えられたのか?
- 延長前半が終わって、自分は、もうチームメイトからも見捨てられて、話しかけてもくれないな、と思って下を向いていたら、みんな来てくれて。
城とか、名波とか、中田ヒデとか、山口素さんも。「1本だけ入れてくれればチャラにするから!もう岡ちゃんしかいないから!」と声をかけてくれたんですよ。スーッと気持ちが楽になりましたね。苦しいことも一緒に乗り越えてきてる仲間ってすごいなと。
本当にチームメイトの支えがなければ延長後半はプレーできていなかったですね。自分に怖がってしまっていましたから。みんなが声をかけてくれて、「やるしかないな」と覚悟が決まって、「チームのために自分ができることを必死でやろう」としか考えなかったですね。
延長後半13分、中盤でボールを奪うと、中田がドリブルでゴール前に切れ込みシュートを放つ。イランのゴールキーパーがはじいたこぼれ球を、岡野さんがスライディングで押し込み、ついに歓喜の瞬間は訪れた。
Q. 最後、Vゴールを決めた瞬間の思いは?
- 今でも鮮明に覚えているんですが、目の前に僕がいたことにゴールキーパーがびっくりしていましたね。僕の顔を見て「あっ」と言った気がします。
あのシュートをスライディングで入れているのも、もう絶対外せないからですよね。そのあとはもう、真っ白でした。よく見てもらえばわかるんですけど、僕、イランベンチに走っちゃってるんですよ。あのまま抱きついちゃっていたら大変なことになってましたね(笑)。慌てて方向を変えました。
日本を悲願のW杯初出場に導いた岡野さんは、アジア予選の一番の難しさとは「アウェーでの戦い」だと語る。
Q. アジア予選の難しさとは?
- やっぱりアウェーでの戦いじゃないですかね。環境も、今はだいぶ改善されましたけど、僕たちの頃は練習場が使えなかったりとか、夜寝ているときに無言電話がかかってきたりとか。日本では絶対やられないようなことがありました。
アウェーは独特の雰囲気で、何が起こるかわからない。向こうの選手もホームでは負けられないですし、日本には絶対勝ってやる、という思いで来ているので。彼らはここでスターになりたい、というモチベーションで来ると思いますし、そこは怖いところだと思います。
厳しいアジアでの戦いを勝ち抜きついに手にしたワールドカップへの切符。
「ドーハの悲劇」から「ジョホールバルの歓喜」へ
この瞬間から日本サッカーの歴史が大きく動き出した。