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蒼天航路

2009年4月~2009年9月 放送
ストーリー

第一話「少年 曹操」

2009年4月7日放送

後漢の都・洛陽の高級住宅地。高級官僚で宦官の祖父・曹騰の養子・曹嵩の嫡子として生まれた曹操は、幼なじみの曹仁の注意をよそに街中を暴れまわっていた。何ひとつ不自由のない環境で育った曹操は、兵法所や五経を軽く暗記する才能がある上、武芸をも磨いた、いわゆる文武両道に優れた若者。都に出没するようになった盗賊を馬で追いかけ、叩き斬る胆力も持ち合わせていた。

そんな曹操が、剛力の持ち主・許褚と知り合って程なく、義兄弟の契りを交わした仲間、夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹仁とアジトに集まった。曹操らの目的は、都を荒らす爆裂団対策。5人は、目下、李烈という男を頭とする爆裂団との抗争の真っ最中だったのだ。李烈は、秦の始皇帝を気取る“上将”を名乗り、自分が世の中を改める、と民衆をあおっている男。その巧みな言葉に吊られて、爆裂団に加わる兵の数が急増し、逆らう曹操らは賞金首にされていたのだ。

曹操が李烈を倒すために考えた作戦は、その論理を打ち砕き、同時に奇襲を掛けること。夏候惇らを伴って一味を訪ねた曹操は、手下たちの前で李烈の考えの誤りを指摘して軽く論破。動揺する李烈を見た曹操は、金で雇った許褚に崖の上から大岩を投げさせて一味を奇襲した。阿鼻叫喚の中、巨岩に押し潰された李烈は、その場で憤死してしまった。

曹操が、戦いの終結を宣言する中、夏侯惇は、頭を亡くした爆裂団の兵たちが憧れの目で付いて来ることに気付いて―。

 

第二話「アモーレ」

2009年4月14日放送

爆裂団を手下に従えて洛陽に戻った曹操は、盗賊狩りを繰り返す日々。その洛陽では、曹操の祖父・曹騰の引退後、中常侍の最高位に就いた張譲が、絶大な力を振るっていた。政府の高官を夢見る袁紹は、曹操に爆裂団と手を切るよう忠告する。だが、曹操は、その言葉をあっさり聞き流した。

そんな中、曹操は、水晶という娘に一目惚れした。水晶は、大陸の西域地方に住む胡人で、茶屋の主人に買われた使用人の子。曹操は、優しく美しい水晶が多くの言葉やギリシャ、ローマ、エジプトなどの物語を知っていたこともあり、強く引かれたのだ。

ところが、この水晶を妻にしようと心に決めた曹操は、茶屋の主人に売られて張譲の屋敷に連れて行かれたと知り、愕然となった。張譲は、宦官ながら女好きで淫猥なことで知られている人物。曹操は、水晶を取り戻すため、すぐに屋敷に乗り込み、結婚したい旨を告げて返すよう求めた。だが、張譲は、曹操の願いを全く受け付けず、逆に衛兵を呼んで追い返そうとした。

曹操の熱い思いを知った水晶は、愛の言葉をつぶやきながら、張譲の刀を抜き、張譲めがけて斬りつける。そんな水晶の体に衛兵の放った2本の矢が突き刺さった。曹操は、襲い掛かる衛兵たちをなぎ倒し、屋敷から脱出する。張譲の追っ手が自分だけに留まらず、一族はおろか係わりのある者全てに及ぶと予想した曹操は、爆裂団に洛陽から離れるよう命じた。

まもなく、水晶の死体が曹家の庭に逆さ吊りにされているのを目の当たりにした曹操は、張譲への復讐を誓った。だが、曹操は、家にやって来た政府の高官・部尉によって捕まってしまい—。

 

第三話「北門の鬼」

2009年4月21日放送

牢獄に入れられた曹操を裁くことになったのは、情状酌量や袖の下も一切受け付けない厳格な姿勢から、“洛陽の鬼神”と恐れられた橋玄だった。張譲は斬首の判決を下すよう脅すが、橋玄の姿勢はいささかも変わらない。孫・曹操の危機に、曹騰も張譲に圧力をかけた。

やがて、始まった審議で、曹操は、結婚相手の返還を求めた末に起きた事件で、正当防衛だと無罪を主張した。証人がいないという橋玄に対し、曹操は、天が全てを見ていたと証言。乱れ、病んだ世の中を正し、治めることこそ、自分に課せられた天命だと言い切った。曹操の言葉に嘘はないと察した橋玄は、その高い志に打たれたこともあり、無罪の判決を下した。

4年後、20歳になった曹操は、洛陽の北門の警備隊長である北部尉となった。部下たちを前に、曹操は、城内の風紀の乱れを正し、悪事を働く者を一掃する目的で、夜間の通行禁止を宣言。反抗したため棒打ちの罰を与えた宗鎰をあえて副官に指名することで、部下たちの統率に成功した。

そんなある日、大官と呼ばれる官僚のひとり蹇朔が夜間通行禁止令を破ろうとして捕まった。曹操は、この蹇朔に棒打ち22回の罰を命令。蹇朔が刑の途中でショック死したことから、曹操の噂は瞬く間に洛陽中に広まり、“北門の鬼”と恐れるようになった。だが、噂などまるで気にしない曹操は、政府を牛耳る宦官たちを粛清するため、『党錮の禁』に注目して、ある戦略を考えた。

『党錮の禁』というのは、数年前、腐敗しきった宦官政治を排除しようとして計画したクーデターが失敗し、首謀者・陣蕃ら100人以上が惨殺された事件。皇帝をも操る10人の宦官“十常侍”—張譲を筆頭とするこの十常侍の中には、蹇朔の甥である蹇碩もいたのだ。

 

第四話「炎の宴」

2009年4月28日放送

陳蕃が出すつもりだった帝・劉宏への上奏文などを入手した曹操は、張譲、蹇碩ら十常侍を糾弾する準備を着々と整えた。だが、災いの元となる曹操を早めに抹殺したい蹇碩側は、劉宏のおじに当たる皇族の亶公にウソを吹き込み、北門の禁令をわざと破らせようと仕向ける。

禁令に従わない人物が亶公だと知った曹操は、それが蹇碩らの謀略だと見抜き、逆にある計画を立てた。それは、亶公を叩き殺したことにして、亶公自身に蹇碩らの策謀を目撃させ、知らせること。この作戦はずばりと的中し、曹操は、亶公を味方につけることに成功した。

次に、曹操は、劉宏に上奏する機会を、端午の節句の宴の時と決めた。この年の宴を取り仕切るのは、曹操に説得された亶公。曹操が何かやらかそうとしていると察知した張譲は、宴の席の裏に弓矢の射手を控えさせ、曹操を射殺そうと計画した。

宴の場に姿を見せた曹操は、劉宏らの前で剣舞を披露した。途中、射手の矢が曹操と亶公を狙うが、曹操はそれを叩き落し、亶公は張奐に守られて無事。作戦が失敗したと気付いた張譲と蹇碩は、苦虫を噛み潰す。

何も知らずに変わった余興だと喜んだ劉宏は、曹操に褒美を取らせると告げた。曹操は、さっそく上奏したい旨を告げ、十常侍らの悪行を記した書簡を差し出す。だが、劉宏の様子を初めて見た曹操は、その資質に疑問を抱かざるを得なかった。

まもなく、曹操に、洛陽の東部にある冀州頓丘の県令に赴任するよう命令が出た。曹操は、それが張譲の厄介払いだと気付いたが、今は動く時ではないと思った。

 

第五話「天下の器」

2009年5月5日放送

冀州・頓丘の県令となった曹操が世の中の動きをじっと窺っていた頃、幽州の涿県には、荒れた国の将来に憂いを抱くもうひとりの男がいた。昼間、ワラジを作って売っているその男の名前は、劉備玄徳。だが、人柄の良さから慕われる劉備には、義賊集団『鬼嚢』の頭という別の顔があった。

夜な夜な人助けのために動くその劉備が、ある日、大きな蛇矛を軽々と操る張飛益徳という豪傑と遭遇した。張飛は、噂の世直し集団『美髯団』の頭・関羽雲張の義兄弟。張飛の強さを知った劉備は、関羽に一目会いたかったこともあり、あっさり投降した。

青龍偃月刀を持つ関羽は、素直に従うよう劉備を促した。ところが、劉備は、自分の生きる目的が天下を獲り、民の笑顔を見ることだと高らかに話す。そして、自ら自分が天下の器だと言い切り、漢の皇族、中山靖王・劉勝の末裔だと明かした劉備は、一緒に天下を獲ろうと逆に関羽に持ちかけた。

張飛は、関羽が、初対面の劉備の誘いを当然断わると思った。ところが、劉備の高い志と人柄を見抜いた関羽は、なんとその申し出を受けてしまう。桃園に集まった劉備、関羽、張飛の3人は、天下泰平を誓って互いに杯を交わし、劉備を長兄とする義兄弟の契りを交わしたのだった。

一方、冀州・頓丘では、民を苦しめていた副県令の左嶺一味の首をはねた曹操が新たな敵と向き合おうとしていた。その敵というのは、『太平道』という新興宗教の信者たちを操る張角という男。この太平道の信者たちは、やがて、黄巾の乱と呼ばれる暴動を起こし、中国全土を揺るがすことになるのだ。

 

第六話「蒼天已死」

2009年5月12日放送

冀州・頓丘の県令を辞めて故郷・豫州に戻った曹操は、その年、自分の良き理解者だった祖父・曹騰を亡くした。帝からの下賜もあった葬儀は、夏侯惇、夏侯淵、曹仁ら親族はもちろん、多くの参列者が集まり、一宦官としては前代未聞の壮大な規模。許婚者の丁美湖がこまごまと曹操の世話を焼く中、当の曹操は、天下を駆けて欲しい、という曹騰の言葉を思い出していた。

曹操は、死者葬送の舞を舞った北の歌姫・卞玲瓏が以前仕えていた“北の怪物”といわれる董卓という男に興味を抱いた。異民族を討伐する西涼十万軍の長でありながら、羌族や胡族の族長と交友がある董卓。漢人でありながら『徳』という言葉には縁がない董卓は、漢帝国を潰す機会を狙っているらしいのだ。

その頃、太平道の信者たちが武装しているのを見た劉備は、教祖の張角という人物に会いたいと思った。偵察を命じられた関羽は、張角の側近をしている旧友の羅厳を訪ね、太平道の狙いを聞く。羅厳の話によると、張角は、私服を肥やす金持ちたちの財を奪い、貧民たちの生活を助けているとか。漢の指導者たちを太平道の信者にしようとしていると知った劉備と関羽は、それが漢への反乱だと悟った。

まもなく、漢帝国に天変地異が続発した影響もあり、張角の元に集まる信者の数は、数十万人に達し、その勢力は漢帝国十三州のうち主要八州にまで拡大した。その時、帝国内で実力があった軍団は、孫堅、劉表、袁紹と袁術、そして、精鋭騎馬軍団を持つ最大勢力の董卓。曹操には、その董卓が帝国内の最高官僚のひとり王允と結んでいるとの情報が届いていた。

曹操は、若き軍師・荀彧の“乱をもって乱を制す”という戦略に同意。『蒼天、既に死す』つまり、漢帝国は既に死んだ、との噂を帝国中に流した。そして、この噂に応えるように、張角は、36万の信徒に黄色い布をつけさせ、決起するよう指令を出した。

 

第七話「天・地・人」

2009年5月19日放送

黄巾党と呼ばれる太平道の信者たちの反乱に、朝廷は、何進を大将軍に据えて対抗しようとした。何進の元には、袁紹ら各地の将軍たちが集結。百名の兵を従えてやって来た曹操は、朝廷から三千の兵を与えられ、最激戦地・潁川で戦うよう命じられた。

進軍の途中、曹操は、黄巾党の兵が占拠する砦を発見。その戦力を見るため攻撃を仕掛けた曹操は、一見無秩序に思えた敵の戦術にア然となった。黄巾党の兵は、常に三人一組で戦い、相手を倒すよう訓練されていたのだ。砦を攻め落とした曹操軍は、潁川の官軍の本陣を守っている皇甫嵩に会い、そのまま最前線へと向かった。

黄巾党軍の戦術をさらに分析した曹操は、三人一組の兵が、盾となる『地』『人』と、相手にとどめを刺す武芸に長けた『天』に役割分担されているのを確認。この『天』『地』『人』の戦術が、黄巾党全体を貫く戦いの思想だと気付いた。

官軍の本陣に戻った曹操は、さっそく軍議で、分析した黄巾党の戦術を紹介し、攻略法を説明した。居並ぶ将軍たちは、曹操の卓越した意見に何も反論できず、ただ舌を巻くばかりだった。

そんな中、曹操らの前に、南方の海賊征伐で名を挙げた孫堅が千人の兵を従えてやって来た。武功を位ではなく金で欲しい、と告げる孫堅に、皇甫嵩の副官は激怒する。だが、財力と信用が大事だと言い切る孫堅は、連れてきた捕虜との約束までも守ろうとする。派手で粗暴に見えるものの、愚直なまでに合理的な考え方を知った曹操は、孫堅に一目置かざるを得なくなった。

 

第八話「業火の奸雄」

2009年5月26日放送

皇甫嵩が治める豫州・潁川は、張角が指揮する反乱勢力・黄巾党との最大の激戦地となった。官軍は、部隊単位でも天地人の陣形をとる10万の黄巾党兵に大苦戦。だが、その中にあって曹操と孫堅の騎馬隊は、獅子奮迅の活躍を見せた。

黄巾党勢力の弱体化を狙う皇甫嵩が次に打った手は、潁川と隣りの南陽の黄巾党兵25万を賄う兵糧が備蓄されている砦の占拠だった。この兵糧を奪うことが出来れば、戦況は大きく変わる。皇甫嵩は、副将軍・厳忠に指揮を任せ、曹操と孫堅を副官に据えて攻撃を命じた。

だが、大豪傑・張曼成率いる黄巾党兵の抵抗は凄まじく、交戦した厳忠の兵は、またたくまに蹴散らされた。これを見た曹操は、夏侯惇、張奐らに、左右の断崖を駆け上って砦内に突撃するよう命令。曹操の動きに反応した孫堅は、直ちに部下の韓当、黄蓋らに、正面突破を指示。曹操と孫堅の攻撃にさらされた砦内の黄巾党兵は、たちまち大混乱に陥った。

張曼成に一対一の戦いを挑んだ張奐は、背中に矢傷を受けていたこともあり、無念の戦死。しかし、続く夏侯惇がその仇を討ち、これを機に黄巾党は総崩れとなった。形勢を見て砦内に入った厳忠は、黄巾党兵の掃討と、備蓄されていた大量の兵糧の持ち出しを指示した。

そんな中、黄巾党の援軍が来ると読んだ孫堅は、部下たちに撤退を指示。一方、3万を超える黄巾党兵の襲来を確認した曹操は、大局的な見地から、兵糧を焼き尽くすよう命令し、厳忠の兵が残っているにもかかわらず、火矢を放たせた。

兵糧と共に、黄巾党兵1万、官軍6千を焼き尽くした曹操が、“乱世の奸雄”と呼ばれるようになって程なく、張角が病死。求心力を失った黄巾党はさらに衰え、黄巾の乱は、集結したのだった。

 

第九話「董卓上洛」

2009年6月2日放送

後漢第12代皇帝劉宏の崩御後、何進大将軍が実の妹・何太后の子・劉弁を皇帝の座に就かせたことから、朝廷は、劉弁の腹違いの弟・劉協を支持する勢力と対立。さらに、張譲が、宦官撲滅を訴える何進と袁紹から自らの地位を守るため、何太后に接近したため、朝廷内は大混乱となった。

袁紹の進言を受けた何進は、腐敗した漢朝を正すため、全土の群雄たちに上洛するよう号令。袁紹から話を聞いた曹操は、北方の董卓も洛陽に来ると知り、胸騒ぎを感じた。都から離れた地で勇猛な騎馬民族を従えるなどして兵力を蓄え、大義によって呼び出される—まさに天・地・人が揃った董卓にとっては、天下盗りの好機到来だったからだ。

そんな中、何進が張譲ら宦官勢力に謀殺される事件が発生。袁紹は、上洛した董卓軍を宮廷外に留め、宦官勢力の粛清を開始した。だが、なおも影響力を保持したい張譲は、なんと劉弁、劉協を連れて宮廷外に脱出。董卓軍を見つけた張譲は、劉弁らを盾にして、活路を求めた。

ところが、朝廷内の混乱を察知した董卓は、あっさり張譲を捕らえて惨殺。そのまま、劉弁らを連れて宮廷に乗り込んだ董卓は、何太后を殺害し、劉協を新しい皇帝に擁立した。袁紹は、董卓の暗殺を試みるが失敗。丁源、伍孚ら何進の部下を処刑し、天下の豪傑・呂布を養子にした董卓は、いよいよ天下盗りに向けて動き出した。

董卓の兵による略奪や凌辱で、無法の都と化す洛陽。宮廷に呼び出された曹操は、残酷、粗暴で知略に富み、さらに武芸にも秀でた董卓を目の当たりにし、大乱の世を確信した。そして、全土の諸侯と反董卓連合を結ぶ必要があると考えた曹操は、袁紹を動かし、天下に檄を飛ばした。

 

第十話「群雄、立つ」

2009年6月9日放送

『董卓討つべし!』—曹操、袁紹の飛ばした檄を受け、各地の群雄が一斉に挙兵した。数万の兵を率いる将軍らが結集した地は、洛陽に程近い天然の要害・汜水関を挟んだあたり。曹操も私財を投じて5千の兵を集め、反董卓連合軍に加わった。

各地で董卓軍と反董卓連合軍の戦闘が始まり、曹操、袁紹らの軍10万は、司州・けい陽に進攻。曹操らは、ここで董卓の命を受けた猛将・徐栄の軍と激突した。徐栄側が最強の騎馬軍を投入していたことから袁紹はおじけ付くが、曹操は、退却すれば大義も粉砕されると見て、単騎敵陣に突撃。これを見た夏侯惇や曹洪らも慌てて進撃し、たちまち激しい白兵戦が始まった。

二手に分かれた袁紹の本隊がようやく戦闘に加わる中、夏侯惇は、射られた自分の左眼球を矢ごと抜き出して食らいながら、なおも戦闘を続ける。曹操は、徐栄との一騎打ちで成敗する直前まで追いつめた。だが、兵の少なさを実感した曹操は、それ以上深追いはせず、ある作戦を考えた。

曹操は、連合軍の陣幕に入るや諸将のふがいなさをなじり、自分が董卓の首を取ってやると、それぞれ千の兵を渡すよう要求した。この挑発に乗せられた袁紹は、曹操に連合軍を離れ、自力で兵を増強するよう指示。曹操は、連合軍に反旗を翻すことなく、自由に行動出来るようになった。

袁紹の軍とは離れて進撃する南の猛勇・孫堅は、荊州・魯陽で董卓の部下・華雄と交戦していた。孫堅軍の若き軍師・周瑜は、替え玉作戦を指示。これに騙された華雄は、孫堅と見誤って、孫堅の部下の祖茂を追う。そんな華雄に単騎で挑んで首をはねたのは、曹操の命を受けてやって来た夏侯惇だった。夏侯惇は、孫堅の軍に加わることを条件に、曹操の旗印を立てる約束を取り付けた。

 

第十一話「汜水関」

2009年6月16日放送

都・洛陽の前に立ちはだかる天然の要塞・汜水関。この地を突破することが董卓を倒す第一歩だと考えた袁紹は、総勢20万の反董卓連合軍に突撃の命令を出した。各将軍の隊列に『曹』の旗印を立てた曹操は、どこからでも出撃でき、しかも兵力の増強につながると読む。やがて、城門の扉が衝車によって破られ、連合軍は内部に突入した。

連合軍側の公孫サンの軍に混じっていた劉備は、余りにも関門が簡単に破れたため、董卓の罠が隠されているとにらむ。だが、大群を率いる袁紹は、一気に董卓軍を叩き潰せると読んでそのまま兵を進ませた。

そんな中、董卓軍の後方から土煙を上げて現れた武将がいた。たちまち連合軍側の兵馬を数十も叩き斬ったその武将の名は、董卓の愛馬“赤兎馬”にまたがる豪傑・呂布。敵はもちろん味方まで戦慄する呂布の迫力に、曹操も息を飲んだ。この呂布に一対一の勝負を挑んだのは、劉備と一緒に出陣していた関羽。張飛を押しのけ、劉備を振り切って馬を進めた関羽は、愛用の青龍刀を振り上げて呂布と斬り合う。両者の余りにも激烈な対決に、戦場はこう着状態に陥った。

曹操は、この状況を見て、袁紹に次の手を打つよう迫った。せかされた袁紹は、関羽と呂布の戦いが続いているにもかかわらず、兵を3つに分けて突撃させ、敵陣を分断する作戦に出る。関羽と呂布の戦いは結着がつかないまま終了し、戦場は両軍入り乱れての殺し合いになった。

その時、突然、汜水関沿いの崖の上に土煙が上がり、牛の大群が雪崩れ落ちてきた。押し潰された両軍の兵から悲鳴が上がる中、今度は、董卓が大群を率いて崖を駆け下りる。董卓軍の罠にようやく気付いた連合軍は、たちまち大混乱に陥った。関門の上から戦況を見ていた曹操は、皇帝・劉協を連れた董卓の皆殺し軍団の実力に舌を巻かざるを得ない。

決戦の地・汜水関で連合軍を叩き潰した董卓は、まもなく、500年に渡って栄えた洛陽の都を一夜で焼き尽くし、長安に遷都したのだった。

 

第十二話「孫堅昇天」

2009年6月23日放送

董卓が長安に遷都した後、焦土と化した洛陽に最初に入ったのは、南方から勝ち抜いてきた孫堅だった。夏侯惇の助言で、破壊された歴代皇帝の陵墓を修復し、街の復興に着手した孫堅は、偶然にも宮廷跡の井戸から、始皇帝の時代から伝わる玉璽も発見する。孫堅の働きは、遠く西域にまで伝わった。

冀州・渤海に引き上げた袁紹は、董卓に対抗すべく、皇族・劉虞を皇帝として擁立しようと画策。故郷・豫州で鋭気を養う曹操は、各地を見聞して戻って来た荀或の情報を元に、次の一手を模索していた。

その頃、新都・長安では、暴虐の限りを尽くす董卓に対する不満が満ち満ちていた。最高官僚、三公・司徒の王允も董卓の行為を危惧するひとりで、部下の土孫瑞と善後策を練る。この話を聞いた王允の養女・貂蝉は、自分が侍女として宮中に入り、董卓を暗殺する方法を探すと告げた。

復興する洛陽に近隣の豪族が集まる中、袁家の出身ながら袁紹と対立する袁術は、孫堅に荊州に進軍するよう促す。袁術に洛陽の守備を任せた孫堅は、まもなく孫策、韓当らの反対を退け、さらに、長らく行動を共にしてきた夏侯惇に別れを告げ、荊州へと兵を動かした。

曹操は、天変地異による凶作で農民の反乱が起きたエン州に、援軍として出動していた。農民を討伐するのが不可能だという荀或は、逆に農民たちをまとめ上げるよう曹操に進言する。農民の先頭に立って戦う大男は、義に富む山賊の頭との噂がある虎痴。だが、虎痴を見た曹操は、すぐに単身馬を進めて近づいた。実は、この虎痴こそ、20年前、曹操と一緒に爆裂団と戦った許チョだったのだ。そして、許チョと親しく話をして部下にした曹操は、見事農民の反乱を収めることに成功したのだった。

一方、荊州に入った孫堅は、ひとりでいたところを劉表配下の伏兵に狙われ、夢半ばにして絶命して—。

 

第十三話「魔王対魔神」

2009年6月30日放送

暴虐の限りを尽くしながら、長安で、世界征服を夢見る董卓。たぐいまれなる美貌と奏曲の技で宮中に入った貂蝉は、この董卓に近づき暗殺を試みた。だが、攻撃はいとも簡単にかわされ、暗殺は失敗。貂蝉の度胸が気に入った董卓は、なんと妃にすえてしまった。

そんな折、北方の匈奴討伐から戻った呂布は、董卓の妃と紹介された貂蝉に一目惚れ。呂布の思いに気付いた貂蝉は、董卓を倒す手段として利用しようと画策した。手練手管を使って呂布を虜にした貂蝉は、董卓の暗殺を勧める。養父・王允に事情を説明した貂蝉は、董卓を暗殺する大義が欲しい旨を伝える。これを受けた王允は、皇帝・劉協に直訴して説得し、ついに董卓誅殺の詔勅を受けることに成功した。

自分を誅殺するための詔勅が出たと知った董卓は、謀反の張本人が王允だと知り、怒り心頭で剣を握りしめた。隠れていた呂布が躍り出て董卓に斬りつける。“魔王”と“魔神”の互いに死力を尽くした戦いに、宮中内は凍りついた。

死闘の末、生き残ったのは、雑兵の加勢を得た呂布。董卓の眉間は、呂布の剣に貫かれた。董卓の死体が都にさらされ、その一族郎党は皆殺し。董卓の部下に狙われた王允と貂蝉も、すぐに殺されてしまった。

その頃、劉岱の後任としてエン州の牧〈州の長官のこと〉になった曹操は、新たな戦いを始めようとしていた。その敵は、8年前、挙兵した黄巾党の流れをくむ青洲黄巾党の命知らずの兵士たち。この戦いは、多くの困難が予想されたが、曹操はなぜか雄飛の機と感じていた。

 

第十四話「強の始まり」

2009年7月7日放送

度重なる飢饉に苦しんだ末、エン州へ侵攻した青州黄巾党の兵25万。ロウ城での籠城を決めた曹操は、兵1万で、殺戮と信仰しか知らないこの大軍を迎え撃つことになった。3日の総攻撃で城が全く落ちる気配がないと気付いた黄巾党の長老は、食糧が底をつき、軍馬をも食べざるをえなくなっていたため、焦りを強める。実は、曹操は、ロウ城内に溢れる程の食糧を蓄えている、との噂を流していたのだ。

まもなく、「中黄太乙!」とお題目を唱えながら進む黄巾党の本隊が、エン州に入った。黄巾党の長老は、何としても本隊の到着前に、ロウ城を落城させようと、決死の総攻撃を繰り返す。だが、曹操の采配は冴えわたり、城は全く動じなかった。

曹操は、城の周りに押し寄せた本隊を見て、ア然となった。本隊の大多数は、兵士ではなく、女や子供、老人、病人といった普通の民衆。これに気付いた曹操は、幻術を使うなどして、黄巾党を味方に取り込むことに成功。曹操は、ついに青州黄巾党の兵30万、100万余の民衆を得たのだった。

その頃、冀州では、袁紹軍4万と公孫サン軍6万が対峙していた。公孫サンの援軍として駆けつけた劉備は、両軍に小さな縄張り争いを回避するよう告げるが、全く相手にされない。劉備が、自分の天下取りに欠かせない将軍のひとりとなる趙雲と出会ったのは、その時であった。

乱世の奸雄として広く世に名を知られるようになった曹操の元には、多くの軍師が集まった。また、孫堅と別れた後、新たな兵を獲得して戻った夏侯惇も加わり、その戦力は膨張する。そんな中、曹操の父・曹嵩が山賊に襲われて死亡。護衛役の陶謙の軍が徐州に逃げ帰ったと知った曹操は、白装束を着せた兵に侵攻を命令。青州兵を先陣に据えた曹操は、怒涛の速さで徐州になだれこんだ。

 

第十五話「黒い嵐」

2009年7月14日放送

青州兵を先頭に曹操の軍が徐州に侵攻する中、劉備は、公孫サンと同盟関係にある徐州の州牧である陶謙の居城に駆けつけていた。陶謙との話し合いで戦いを決意する劉備に対し、肝心の陶謙は、心労の余り昏倒。農民たちの支持を集めた劉備は、兵士以外への殺戮を繰り返す曹操軍を撃退しようと準備を固めた。ところが、曹操軍は、突如徐州からの撤退を開始。その後、陶謙が病死したため、劉備は、農民たちに押される形で徐州の州牧に就任することになった。

その頃、曹操が留守にしていたエン州のケン城で別の戦闘が始まろうとしていた。以前、曹操に付いていた軍師の陳宮が張バクに鞍替えして反曹操連合を作り、そこに猛将・呂布が参入。陳宮の作戦に乗った呂布が、荀彧が守るケン城を攻略するために出陣したのだ。

これが、曹操が徐州から兵を引いた原因だった。確かに荀彧は、優秀な軍師ではあったが、呂布は、もともと器のない“純粋戦士”。曹操は、荀彧が器で呂布を推し量ろうとすれば、必ず死ぬと予想したのだ。

名馬・赤兎馬を乗りこなし、両手に武器を握りしめる呂布。この猛将と相対した荀彧は、圧倒的な迫力に息を飲んだ。呂布の一撃で馬から転落した荀彧は、死を覚悟する。その時、『曹』の旗を掲げた曹操が到着した。折りから襲来したイナゴの大群が嵐のように飛びかう中、曹操は、荀彧に代わって呂布と対決した。

呂布が戦いのみに生きる最強の戦士だと再確認した曹操は、すぐに戦を長引かせるよう荀彧に命じた。曹操は、戦いの間、呂布を敵として力を発揮したい人物を集め、その中から人材を発掘しようと考えたのだ。そして、思惑通り、郭嘉という軍師が曹操の元を訪れた。

 

第十六話「天子奉戴」

2009年7月21日放送

領地であるエン州の半分を失った曹操は、侵攻してきた呂布軍を撃破するための二つの策を考えた。ひとつは、呂布の居城である濮陽城を、夏侯淳の騎馬隊で繰り返し攻め上げる陽動作戦。もうひとつは、100万の青州兵に、荒れ果てた大地を開墾させること。郭嘉、程昱、荀彧という3人の軍師の知力を駆使した曹操は、収穫を終えた秋、ついに呂布軍討伐に打って出た。

曹操軍は、いつもより大胆な騎馬隊による陽動作戦で、呂布をおびき出すことに成功。曹操は、その呂布の前に、単騎で立ちはだかったのだ。いきり立つ呂布は、すぐに赤兎馬にムチを入れて曹操の追撃を開始。これが曹操の罠だと見た軍師・陳宮は、慌てて1万の兵の半分を、さらに待機させていた3千の兵を呂布の援護に向かわせる。しかし、峡谷に誘い込まれた呂布軍8千は、曹操側の落石攻撃を受けて全滅。呂布は、味方兵の死体の山を見ながら、ひとり逃亡するはめになった。

エン州で勢力を挽回した曹操が次に狙ったのは、皇帝・劉協の威光を手に入れることだった。董卓の死後、重臣たちの対立に嫌気がさした劉協は、皇后・伏とわずかの腹心を伴って長安を脱出。1年近く、放浪の旅を強いられた劉協は、ようやく孫堅によって再建された洛陽に戻っていた。

呂布が徐州の劉備を頼ってその居城を訪ねた頃、曹操は、大群を率いて洛陽に入城していた。夏侯惇ら四天王、許チョ、典韋、三軍師らと共に劉協と会った曹操は、さっそく許への遷都を上奏。洛陽にこだわる劉協に対し、曹操は、国家を祀る宿命にありながら、ひとりの人間でもある劉協の立場に理解を示して説得する。そして、自分が皇帝を名乗る意志が全くないことを告げた曹操は、劉協を天子として奉戴すると宣言した。

 

第十七話「曹操と劉備」

2009年7月28日放送

予州の許に遷都した曹操が、程昱ら三軍師に命じて着々と地盤を固めていた頃、徐州の劉備は、思わぬ事態に陥っていた。呂布と共にやって来た陳宮の策謀で、張飛の守っていた下ヒ城が兵もろとも乗っ取られたのだ。報告を受けた劉備は、袁術との戦いで兵糧も尽きたことから、いよいよ追いつめられる。

その劉備が考えた次の一手は、関羽も予想しない内容だった。劉備は、なんと敵対していた曹操の元に身を寄せる、と言い出したのだ。

許都に劉備がやって来たと聞いた郭嘉は、いずれ対決するに違いない劉備をすぐに誅殺するよう曹操に進言した。だが、曹操は、意外にも、劉備らに食事をさせて金を与えるよう命じ、狩りに招待した。

劉備と一緒に狩猟場に行った関羽は、曹操と共に、夏侯惇、曹仁ら主だった武将が仁王立ちしているのを見て、身の危険を感じた。だが、劉備は、緊張しながらも、楽天的な性格丸出しで曹操と言葉を交わす。

双方の代表同士が狩りの対決をして程なく、曹操が劉備と弓の腕前を競うことになった。この勝負で、曹操が出した条件は、自分が勝ったら“劉備の首”をもらう、という内容。もちろん、関羽と張飛は反対した。しかし、曹操の負けた時の条件が“都と天子”だと知った劉備は、何と自分の首に加えて、関羽と張飛の首も賭けると言い出した。

やがて、狩りが始まる中、曹操はさらに劉備に、都と天子を手に入れた場合何をするのか、と質した。劉備の答えは、「民の笑顔を見たいだけ」—。このひと言で、劉備がこの場で殺すには惜しい人物だと悟った曹操は、直ちに狩りを終わらせる。そして、劉備に兵馬と兵糧を与え、呂布から徐州を奪回するよう命じたのだった。

 

第十八話「鄒氏夢幻」

2009年8月4日放送

亡父・孫堅が手に入れた玉璽と引き換えに、袁術の指揮下から外れることに成功した孫策、孫権兄弟。その2人がかつての孫家の領土があった江南〈揚子江河口の南部〉に戻る頃、曹操は、長男・曹昴、甥の曹安民らを伴い、荊州の宛城に軍を進めていた。

曹操軍の進攻に、宛城を守る張繍はあっさり降伏した。だが、それは、天下を取るための布石。張繍の軍師・賈クは、絶世の美女と評判の高い鄒氏を利用し、曹操を亡き者にしようと考えていた。全てを見通す卓越した能力を持つ曹操は、自分の心の隙を満たすため必ず鄒氏に溺れる—賈クは、そうにらんだのだ。

宛城に入った曹操は、予想通り鄒氏の虜になった。鄒氏の屋敷に泊まり続ける曹操を見た張繍は、鄒氏が自分の愛人だったことから、嫉妬に身を焦がす。そして、数日後、賈クは、ついに配下の忍び・胡車児に曹操の謀殺を命令した。曹操を討ち、袁紹に同盟を持ちかければ、天下の形勢は一気に張繍に傾く、と賈クは読んだ。

曹操が籠もる鄒氏の屋敷を守っていた曹安民は、典韋や兵が毒を盛られて苦悶するのを見て、すぐに張繍の仕業だと感づいた。曹安民は、すぐに胡車児配下の兵と戦うが、多勢に無勢で憤死。典韋も、毒にやられた体で胡車児の首をへし折ったものの、そこで無念の死を遂げてしまった。

張繍側の兵が屋敷の周りで鬨の声を上げる中、馬に乗ったまま駆けつけた曹昴は、曹安民らの死を確認した。慌てて寝所に乗り込んだ曹昴は、うつろな表情の曹操の隣にいた鄒氏を一刀両断。そのまま曹操を用意した馬に乗せた曹昴は、城からの脱出を図った。

異変に気付いた曹操軍の青州兵は、城の外側から攻撃を始めるが、城内は張繍の兵だらけ。曹操と曹昴は、降り注ぐ矢の雨の中、城門に向けて突き進んだ。

 

第十九話「猿と龍」

2009年8月11日放送

張繍の居城・宛城から脱出するため、城門に向けて馬を走らせる曹昴と曹操。だが、城門を出た直後、曹操の乗る馬の頭に敵の矢が命中してしまった。これを見た曹昴は、矢による致命傷を受けたこともあり、曹操に自分の馬に乗り換えるよう告げる。曹操は、まだ朦朧状態が続いていたが、わが身を犠牲にした曹昴の働きで、張繍の追っ手を振り切ることに成功したのだった。

曹操が命からがら許都に戻って1年ほど後、揚州の袁術は、玉璽を手に入れたことで自ら皇帝を名乗って行動を起した。袁術は、呂布や孫策に協力を断わられたものの、劉協を皇帝の座から引きずり降ろすため、曹操のいる許都に兵を進めたのだ。高らかに『聖戦』を唱えて進撃する袁術軍は8万。袁術は、優雅に女をはべらせた馬車に揺られながらの出陣となった。

曹操から迎撃の命を受けた荀彧は、極力兵を使わず、袁術軍を丸裸にする戦術を考えた。荀彧の作戦というのは、文字や絵を描いた大きな凧と、許チョの大声を巨大な拡声器を使って流す宣伝戦。人の群れが、利益と恐怖と、天に対する畏れで動くと知る荀彧は、絶妙のタイミングで、凧を揚げ、音を流した。

奇妙な攻撃を受けた袁術軍は、当惑し動揺して武器を捨てる兵が続出。袁術側の将軍を見つけた荀彧は、言葉巧みに説得して戦闘意欲を失わせる。そして、頃合いを見計らって出撃した許チョは、将軍たちを蹴散らした。これを見た袁術は、たまらず撤退を始めるしか手がなくなって—。

 

第二十話「不動の魔神」

2009年8月18日放送

張繍軍の動きが活発になる中、許都の曹操は、兵士から抜擢した楽進の教育に余念がなかった。楽進の指導を命じられたのは、はるばる蜀から招聘した軍師の荀攸。曹操は、呂布が徐州をうまく治めているとの報告を耳にしながら、楽進に張繍軍を相手にした実戦教育を命じた。

荀攸と共に兵を進めた楽進は、単騎で敵軍に突撃する勢いがあった。張繍側の軍師・賈クは、進撃する楽進の部隊、さらに于禁の部隊を見て、地形を利用した策を巡らす。だが、その裏の裏をかいた曹操は、逆に張繍軍に反撃。楽進の初陣は、見事な勝ち戦となった。

その頃、徐州の呂布は、機は熟したとする陳宮の提言を受け、劉備軍への攻撃を開始していた。下ヒ城を出た呂布の大群に気づいた駐屯地の劉備は、あえて居城の沛城を捨てて逃げる作戦をとる。炎の勢いで進む呂布の軍を見た曹操側の夏侯惇は、側面から矢を射かけて攻撃。以前の呂布なら、この挑発に簡単に乗ったのだが、人間的に大きく成長した呂布は、微動だにしない。

劉備は、新たに呂布の下に集まった軍が、元董卓子飼いの優秀な部隊だと知り、焦りを隠せなかった。呂布軍の先鋒は、風のような速さで猛進しながらも、まるで隊列を崩さない騎馬隊。呂布軍から逃れるのが難しいと見た関羽は、自ら最後尾となって劉備と張飛を逃がそうと考えた。

まもなく、呂布軍先鋒の将・張遼と関羽の一騎討ちが始まった。この勝負が互角だと知った劉備は、逃走が困難と見て、呂布への投降を決意したのだった。

 

第二十一話「純粋戦士」

2009年8月25日放送

呂布に投降した劉備があえなく投獄される中、曹操の5万の大軍は、夏侯惇、楽進の軍と共に徐州に進攻した。徐州は、5年前、曹操が何十万もの民を虐殺した地。怨恨に満ちた目を向ける村人を見た郭嘉は、敵が呂布だけではないと実感する。

一方、呂布の居城・下ヒ城では、軍師・陳宮が、曹操を撃破する策を説明していた。陳宮は、曹操軍が徐州内に布陣する直前、つまり行軍の疲労が頂点に達した時点で、張遼、高順の軍と共に、呂布が出陣し、相手の本隊を急襲すべきだと考えていた。

だが、呂布が採用したのは、陳宮が密かに曹操側に内通しているとにらんでいた軍師・陳珪、陳登父子の策—呂布には最もそぐわない籠城戦だった。話を聞いていた陳宮は、呂布が『民』という言葉に動かされたと気づき、ア然。そして、籠城が戦力を半減させる愚か極まりない判断だと知りつつも、陳宮は呂布に王者の風格を見た。

まもなく、下ヒ城を包囲した曹操側は、驚きの光景を目の当たりにした。城門が開くや、何と大量の槍を持つ兵を従えた呂布が単騎で出陣し、曹操軍の兵をまとめて串刺しにし始めたのだ。刺し殺された仲間の死体が累々と転がるのを見た曹操軍の兵たちは、恐怖に怯えて震え上がる。まるで散策でもするかのような呂布の出陣は、曹操軍と呂布軍の兵の士気を逆転。まさに武神と化した呂布の雄姿を見た陳宮は、歓喜に震えた。

呂布が城の全ての方角の門から“串刺し出陣”を始めたため、曹操側は、打つ手がなくなった。兵糧を運んでいた5万の青州兵が、城外で遊軍となっていた1万の張遼軍に襲われて大敗。泰山の山賊まがいの軍が呂布側に付いたとの話も伝わる。さらに、厳しい冬の到来が近づきつつあった。

そんな中、荀攸は、曹操に、下ヒ城の水攻めを献策して—。

 

第二十二話「呂布伝説」

2009年9月1日放送

曹操軍水攻めで、下ヒ城内に大量の水が流れ込んだため、呂布軍は、大混乱に陥った。この水が、身を切る冷たさだったため、呂布軍の兵の士気は著しく低下する。陳宮は、地下牢に監禁していた劉備らが脱獄し、城内の民や兵を味方に付けたと知り、焦りを募らせる。そして、城が、曹操の大軍に囲まれたと気づいた陳宮は、呂布軍の負けを悟った。

降伏を促す曹操側の声が城内に響き渡る中、陳宮は、次の手を考えた。それは、呂布を城から脱出させること。陳宮は、この作戦が成功しさえすれば、呂布は必ず再起するとにらんだのだ。

ところが、その直後、陳宮の計算外の事態が発生した。なんと呂布軍の負けを確信した何人かの将軍が陳宮を拘束し、曹操側に寝返ったのだ。これを見た呂布は、陳宮の名を絶叫。劉備は、このスキに城門を開け、曹操側に向かった。

頼みの陳宮を失い破れかぶれになった呂布は、赤兎馬にまたがり、単騎出撃した。投降兵の群れを血祭りに上げた呂布は、まさに鬼神の形相で曹操軍の中に突っ込む。曹操を捜して駆け回る呂布に、曹操軍の兵は、逃げ回るばかりとなった。

だが、これを見た曹操は、待っていたかのように、無数の矢と槍で応戦した。まもなく、槍を脳天に受けた赤兎馬が倒れたため、呂布は地面に投げ出された。その呂布に絡みつく多数の鎖。呂布は、激しく抵抗するが、許チョら力自慢の曹操兵に縛られ、ついに絞め殺されてしまった。

呂布の死を見届けた曹操は、捕らえた陳宮の軍師としての才能を惜しみ、再び自分に仕えるよう迫った。しかし、呂布への忠義を貫く陳宮はこれを拒み、死を選んだのだった。

 

第二十三話「天意と雷鳴」

2009年9月8日放送

西暦199年、袁紹は、公孫サンが籠城する易京城の攻略に成功。公孫サンの兵を吸収した袁紹軍は、冀州、并州、青州、幽州の4州を手中に収め、数十万の兵力を擁する大勢力に成長していた。

その袁紹が曹操の拠点・許都を虎視眈々と狙う中、劉備は、悶々とした生活を送っていた。許都に戻った劉備は、天下が曹操と袁紹に二分されようとしている状況を見ながら、自分が時代に取り残されていると気づいたのだ。

まもなく、劉備に曹操から、左将軍に任命するとの連絡が入ると共に、端午の節句の宴に参内せよとの命令が出た。劉備は、自分がそれほど功績を上げていなかったことから、曹操の異例の大抜擢に首をひねる。その理由を質す劉備に対し、曹操は、劉備の持つ人々を引きつける不思議な魅力が欲しいのだと言う。

そんな折、劉備に驚きの話が伝わった。それは、皇帝・劉協と血縁がある将軍・董承を介して劉備に届いた、『曹操を誅殺せよ』との密勅。暗殺の場所は、端午の節句の宴の席で、劉備は、劉協や曹操の前で剣舞をする手はずになっているのだ。

宴の当日、嵐の気配が漂う会場で舞い始めた劉備は、暗殺の機会があるにもかかわらず、迷い続けた。劉備の心の内を読んで、舞に加わる関羽と張飛。そして、曹操のひと言で計画がバレたと察した劉備は、命がないと見て勅命を実行しようと思った。

その時、「剣を捨てろ!」との曹操の声。劉備が剣を手放すや、そこに鋭い閃光と共に雷鳴が轟いた。黒焦げになった剣を横目に、劉備ら3人の無事を喜ぶ曹操。その大きさを思い知った劉備は、まもなく一族郎党を引き連れ、逃げるように許都を後にした。

曹操の凄さにようやく気づいた劉協は、帝位を譲ると言い出した。しかし、曹操は、自分が臣の筆頭でかまわない、と帝位に就くことを拒み続けたのだった。

 

第二十四話「投降と遁走」

2009年9月15日放送

曹操暗殺の密勅を持ったまま許都を脱出した劉備が向かった先は、徐州の下ヒ城だった。徐州の民衆に人気のあった劉備は、たちまち勢力を拡大。曹操の命を受けてやって来た徐州刺使を殺害したため、曹操と劉備は、永遠に袂を分かつことになった。

一方、皇帝・劉協を動かして劉備の持つ密勅の効果を消した曹操は、夏侯惇らわずかの手勢を連れ、袁紹の一大拠点・黎陽に乗り込んでいた。袁紹側の将軍・顔良と会った曹操は、直接宣戦を布告。これにより、曹操と袁紹が覇を争う“官渡の戦い”の幕が切って落とされた。

そんな折、曹操の元に、賈クと張繍が投降してきた。曹操にとって、この2人は、嫡子・曹昴を殺した憎き敵。だが、曹操側の怒りを知った上でやって来た不敵さと知力を評価した曹操は、2人の投降を許可した。

袁紹との天下分け目の戦いを前に、曹操が動いた。行く先は、袁紹と同盟を成立させた劉備のいる徐州。この曹操の大軍の急襲に驚いた劉備は、小沛城にいる家族、下ヒ城にいる関羽を残して遁走していた。

小沛城を包囲した曹操は、単騎で劉備の嫡子・劉冀に迫った。劉冀は、父・劉備を生かそうと、夫人と共に自決する決意を告げる。曹操は、そんな劉冀の命を助け、次の行動に移った。曹操の真の目的は、下ヒ城に籠城する関羽だったのだ。

包囲する大軍の中に曹操を見つけた関羽は、真っ先に劉備の生死を質した。そして、劉備が全てを放り出して遁走したと知った関羽は、討ち死に必至の戦いをする覚悟を固めた。だが、曹操の背後に劉冀の姿を認めた関羽は、驚愕。天下の才、天下の度量を民のために使え、と迫られた関羽は、ついに曹操に投降したのだった。

 

第二十五話「白馬津」

2009年9月22日放送

曹操と袁紹が黄河を挟んで一触即発の状況になる中、劉備に曹操暗殺の密勅が下されたとの噂が広まった。これを耳にした袁紹は、わずか十数騎で曹操の追っ手から逃げ延びてきた劉備を迎える。

そんな中、許都で、皇帝・劉協の叔父ら漢王朝の重臣たち七百人が皆殺しにされたとの話が伝わった。皇帝の血筋、中山靖王の末裔を自認する劉備は、本営にいる兵士たちを集めて欲しい、と袁紹に頼み込む。そして、見渡す限りの兵士たちに、大義が自分たちにあることを明かした上で、曹操打倒の檄を飛ばした。袁紹の兵士たちは、劉備の熱弁に酔い、袁紹軍の士気は一気に高まった。

まもなく、曹操討伐の先陣となった劉備は、将軍・顔良と共に黄河を渡り、白馬城を攻略することになった。怒涛の勢いの袁紹軍は、たちまち将軍・劉延が守る白馬城の門前に殺到する。

城の陥落が時間の問題だとあきらめかけていた劉延は、曹操軍の旗を掲げて進撃してきた援軍を見て、ホッと胸をなで下ろした。軍の先頭を進む人物を見た劉備、張飛らと顔良軍の兵士は、ア然。その男は、なんとたてがみのある奇獣の面をつけていたのだ。

顔良は、たじろぐ兵士たちにハッパをかけて応戦するが、奇獣面の男は、縦横無尽に兵を動かして、顔良軍をなぎ倒した。男が青龍偃月刀を持っているのを見た顔良は、その見事な太刀さばきに顔色を変える。何かを感じた劉備は、奇獣面の男に襲いかかろうとする張飛を見て、身をもって止めさせた。

やがて、男が顔良を一刀両断にするのを見た劉備と張飛は、それが関羽だと気づいた。

 

最終話「心の闇」

2009年9月29日放送

曹操と袁紹が互いの命運を賭けて激突した『官渡の大戦』は、緒戦、突如現れた奇獣の面を付けた関羽の猛攻で、袁紹側の顔良軍は劣勢となった。顔良が殺されたと知った兵たちは、ただ敗走するだけ。劉備と張飛も、撤退を余儀なくされた。

まもなく、袁紹側の大船団の前に、曹操がわずか3千ほどの兵と共に現れた。これを見た袁紹は、文醜に5千の兵で討つよう命令。劉備と張飛も、袁紹に参戦を願い出て、曹操の追撃が始まった。

文醜は、撤退する曹操の軍を見つけて、勢い付いた。だが、追っ手が近づいたと知った曹操は、思わぬ作戦に出る。曹操側は、3千の兵のうち2百名の兵を、2回に分けて本隊から分離させたのだ。この分離した兵の中に曹操がいる可能性があると見た文醜は、それぞれ千名ずつの兵で、百名の曹操兵を追撃させる。

この時点で、文醜軍3千に対し、曹操軍は2千8百。この後、曹操側は、さらに3百の兵を分離させた。だが、この戦いの目的が曹操の首を獲ることだと考えた文醜は、兵を半分に分け、自らは黄河に向かう2千5百の曹操軍を追撃。文醜は、退路がない曹操を必ず倒せると考えた。

ところが、曹操は、猛進してきた追っ手を挟み撃ちにして、あっさり文醜を倒し、さらに堤防を破壊して、文醜兵を全滅させてしまった。

一方、2度目に分離した曹操兵の中に加わっていた関羽は、反転して、迫る文醜兵を斬りまくっていた。曹操に、劉備を殺すよう命じられ、乱世が収まったら政〈まつりごと〉で腕を振るうように、と告げられていた関羽は、完全に心を乱していた。張飛は、そんな鬼神のような関羽を見つけ、全身に怒りをたぎらせて襲いかかった。

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