昭和15年に陸軍に召集された24歳の加藤哲太郎(中村獅童)は、昭和20年の終戦時、新潟の俘虜収容所の所長をしていた。大学で経済を学んだ哲太郎は、外国語が分かるということで、米英の高級将校が多いこの収容所の担当となったのだ。
終戦の玉音放送を部下たちと共に聴いた哲太郎は、ある決意を固めていた。それは、数ヶ月前、こともあろうに脱走を企てた捕虜の射殺事件が発生した。犯人は不明であったが、敗戦によって収容所に所属していた兵士全員に重罪が下るのは必至だった。考え抜いた哲太郎は、部下たちを救おうと、捕虜射殺の一件を含め全ての罪を一人で被って逃走しようと決めたのだ。
「無条件降伏」とは名ばかり、戦争の終結と同時に、日本軍の捕虜収容所関係者は、BC級戦犯として追及され始めた。
哲太郎の家族は、文学者で思想家の父・一夫(森本レオ)、母・小雪(名取裕子)、妹の不二子(優香)と美地子(東亜優)の4人。戦争が終わったという安堵感もつかの間、人目を憚るように姿を見せた哲太郎から事情を明かされ、逃亡する旨を告げられた不二子。哲太郎の一家は、哲太郎の無事を祈りながら、どんな世間の仕打ちにも耐えていこうと深く心に決めた。
まもなく、一夫ら家族に対する警察の執拗で厳しい尋問が始まった。捕虜殺害と逃亡の嫌疑が掛かった戦犯に対しては、その家族に対する追及も厳しく、一夫らは“戦犯家族”として世間の冷たい視線にもさらされることになった。そのころ新聞では、BC級戦犯に絞首刑の判決が出たとの記事が掲載されるようになった。
昭和21年5月、東京裁判が始まった頃、逃亡中の哲太郎は、戦争で一人息子を亡くしたという元大学教授の篠田喜久雄(山本圭)、サチエ(草笛光子)夫婦の家に世話になっていた。息子を失ったショックから、軍服姿の若者をすぐに息子だと思ってしまう哀れな老婦人サチエがいた。
そんな中、戦災で家族全員を失い天涯孤独になった倉沢澄子(飯島直子)と仲良くなった哲太郎は、つかの間の心の安らぎを得た。
だが、平穏な日々は長くは続かなかった。新聞で逃走中の戦犯の指名手配写真を見た篠田が、哲太郎の正体に気付いて警察に通報。これを知った澄子から話を聞いた哲太郎は、再び逃走するはめになった。「一緒にいないほうがいい」という哲太郎に対し、事件のいきさつを聞いた澄子は、二人で暮らして行きたい胸の内を告白。その後、哲太郎と澄子は、偽名を遣い、夫婦を装って、日本各地を周ることになる。
昭和22年、横浜の木賃宿にいた哲太郎は、自分の元部下たちが懲役5年の刑で済んだと知った。そのことは即ち、哲太郎の絞首刑が決まったことを意味していた。BC級戦犯の処刑が次々と執行される中、澄子はもちろん不二子や一夫も心配を募らせた。
哲太郎の次の潜伏場所は進駐米軍の基地であった。ミルクホールのボーイとして、働いていたのだ。まさかこんなところに逃走戦犯がいるわけないだろうと、裏をかいたのだった。そしてその頃、澄子から妊娠したことを明かされた哲太郎は、素直に喜ぶ。しかし、そんな生活も永くは続かず、再び逃亡を始めた哲太郎は、とある街道筋でついに逮捕されてしまった。終戦から3年が経過していた。
昭和23年の12月から始まった軍事法廷で、哲太郎は、俘虜殺害、不法虐待、暴行、逃亡などの罪で絞首刑を宣告された。傍聴していた不二子と美地子は、予想通りの判決とはいえ、ショックで身を震わせる。そして、その時から、哲太郎の家族たちの新たな戦いが始まった。
哲太郎が巣鴨死刑囚収容所に収監された頃、不二子らは、哲太郎の子供を出産した澄子の存在を知った。由子と名付けられた幼い姪を見た不二子の心の中に、哲太郎に対する哀憐の情と共に深い怒りと悔しさの感情が湧き始めた。そして、このまま哲太郎を死刑台に送らせまいと助命嘆願運動を開始した。一夫は病身にムチ打ってあらゆる知り合いの著名人、大学関係者に手紙を書く。不二子や美地子は、街頭に立って署名を募った。
通常、死刑囚は、判決が下ってから6ヶ月以内に刑が執行される。焦る不二子らは、懸命に運動を進めるが、凄まじいエネルギーで進む戦後復興の勢いの中、その声はかき消されてしまった。不二子は、減刑され釈放されて全国に散らばる元部下たちを周り、捕虜が殺害された当時、哲太郎にアリバイがあったことを掴んだ。
いよいよ処刑が迫ったと察した不二子は、それまで誰も考えなかった最後の賭けに出た。それは、連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー元帥への直訴だった――。