米を飲んだ。魚の骨を喉に詰まらせたわけではなく。

 日本酒が米からつくられるものとは知っていたけれど、実際に地酒づくりをしてみると、改めて米が変身したこと、それらを飲むことに、新鮮な驚きがあった。

 完成したばかりの陶器に盛られたこの酒は、確かに昨年春から僕らが育てた男米だった。春に食用と分けて植えた酒用の男米。秋まで食用の男米と同じように育て、同じように実をつけて、同じように収穫した。収穫した時は、少し粒が大きいくらいで何の変哲もないお米だった。それが、蒸したり、麹と混ぜたり、仕込んだりで、液体となった。
 米が白く黄色い液体に・・・、僕はこれが何の味もしないただの液体だったらどうしようかと、その時思った。単純に、液体となった米の味など想像もつかなかったからだ。でも、飲んでみると「これだ」と思い直した。少々甘口の日本酒だった。
 日本酒は米からできていて、村の男米は日本酒をつくるためのものということは、もちろん知っていた。けれど、液体となった米を飲んだ時、それを実感し、その発見を初めてのことのように驚き、感動できた。




 村の田んぼから生まれた酒を飲む喜びは、同じく田んぼから生まれた白米を食べる喜びとは厳密には少し違うように思った。米の場合は、ほっとする気持ちがあって大きな安心感がある。それが酒の場合は、楽しい出来事を控えているような、わくわくした気持ちがある。

 それは、日本人にとって白米はなくてはならないもので、酒は決してそうではないものということがあるからかもしれない。でも、それは食卓でのこと。この世の中には酒はなくてはならないもので、決して消えないものだと思う。食べて味わえない喜びが、飲んで味わえることがあるから、飲むお米はこんなにも美味しくて、こんなにも愛され続けているのだと思う。




 

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