先週、つぼみの中をチラッと覗かせていたスイセンだったけれど、その中身は今週になっても僕らに見せてくれなかった。
何か不都合でもあったのだろうか?代わりにと言うわけではないけれど、同じく役場の近くにある、村でたったひとつの梅の木に待望の花がついた。
今年は何を手間取ったのか、こんなに遅咲きになってしまったけれど、花はいつもと変わらぬ丸く分厚く白い。これで桜の方も、勢いづいて欲しいものだ。
4月は新年度の幕開け。この季節にふさわしい花のつく木を急かさずにはいられない。

 上の方でも下の方でもますます花が増えてきた。毎日のように全部の花の様子を見てまわっていると、今更ながらいろんな花があるんだなと思えてくる。
何で色が違うのだろうか?何で形が微妙に違うのだろうか?開花時期も場所もなんでそれぞれ違うのだろうか?そんな疑問に行き着く。
それには理由があるはずだ。この勘のようなものは、守山先生との会話の中で養ったものだ。




 ここに生きるもの、ここにあるもの全ては、その色、形、行動、いろんなものに「理由」がある。
実を守るために高い場所になったり、身を守るために見つかりにくい色だったり。ちゃんと理由がある。
植物や、昆虫や、動物以外にも、母屋の茅葺にも理由があるし、役場の鬼瓦にも存在する理由がしっかりある。
だからきっと、この小さな花々たちにも理由がある。いろんな理由が詰まりに詰まって、青色をしていたり、葉が硬かったり、咲くのが遅かったりしているのだと思う。
そして、きっとその理由が向かうのは、僕らと同じで「生きる」ということにあるのだと思う。

 でも、そうだとすると、この村で僕らヒトだけが「生きる」のほかに「豊かにする」ためにモノをつくったり、他の生き物を利用していることになる。
ヒト以外はモノを持たない。ただただ「生きる」に専念している。僕たちだけがそうしていない、その理由は何だろうか?僕らがきっとこの世の中で一番弱くて「豊かにする」ことをしていないと、駄目になってしまうからじゃないだろうか?心を豊かにして、花々を綺麗と感じられるくらいでないときっと弱い僕らはおかしくなってしまう。
そして「生きる」に専念している生き物諸共なくしてしまうだろう。
豊かにする理由はみんなをなくならせないためだと思う。

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