放送内容

第1364回
2017.02.26
熱海 の科学 場所・建物

 春が近づき、そろそろどこかに出かけたいと思い始める頃。
 実は、ここ数年、急速に盛り上がりを見せているのが熱海なんです。
 減少の一途をたどっていた、かつての人気観光地が、ここへきて再び注目を浴びている理由とは?各分野の専門家と現地を巡り、その謎を解き明かします。今回は今人気の「熱海の魅力」を科学で解明!

熱海に温泉が出る仕組みとは?

 熱い海と書いて熱海…お馴染みの地名ですがどういう意味があるのでしょうか?実はこの「熱海」という地名の由来はまさにその温泉にあるといいます。そこで、街の北東部にある熱海最古の温泉を訪ねました。
 その名も「走り湯」。伊豆半島ジオパーク推進協議会の鈴木雄介さんによると、そのむかし、熱海というのは、魚がゆだってしまうほど熱い海だったという伝説があると言います。その伝説によると、約1260年前の熱海の海中では…高温で沸き立って魚がゆであがってしまう場所があり、漁民がとても困っていたとされているのです。しかし鈴木さんによると、伝説ではなくて熱海が実際に“熱い場所だった”ことを示す場所があるそうです。
 そこで向かったのは熱海の南側にある景勝地、「錦ヶ浦」の近くにあるホテルニューアカオ。広々としたダイニングホールから見えたのが・・・ゴツゴツとした「岩」。その様子を近くで見てみると・・・角張った石がたくさんゴロゴロとくっ付いています。

 鈴木さんによると、この石は海の底に溶岩が流れ込んだりするときにできる「水冷破砕溶岩」というそうです。これは、熱々の溶岩が海の底に出てくると急に冷やされ、パリパリの溶岩がたくさん出来たもの。そこで、水冷破砕溶岩ができる様子を実験で観察。ガスバーナーでガラス棒を真っ赤になるまで加熱し、溶けた溶岩に見立てます。それを水の入ったビーカーに入れてみると・・・溶けたガラス棒の表面がパリパリと割れ、細かく砕け散りました。この細かく割れたガラスが先ほどの石の1粒1粒ということ。

 実際に海外で撮影された水中火山の様子を見てみると…吹き出した溶岩が水にふれた途端、バリバリと黒い粒になりながら砕けます。
 これが水冷破砕溶岩。この海岸線ではまさにこの現象が起きていたと考えられるのです。今から数十万年前、熱海周辺では火山活動が活発に起きていました。その噴火口の1つが海中に開き、水冷破砕溶岩の地盤をつくったのです。その後、さらに地形変化があったのち、現在の熱海の土地が生まれました。その地中に熱は未だに残っており・・・陸でしみ込んだ水や海水が地下の中にしみ込み、熱海の高い地熱で温められたものが湧きあがり、熱海の温泉を作っているというんです。

人々が熱海に求めたものとは?

 2016年11月にリニューアルしたばかりの熱海駅。熱海の近代史に詳しい一橋大学の高柳 友彦先生と、景観工学の専門家・東京大学の堀 繁先生を交えて熱海の秘密を探ります。
 高柳先生によるとそもそも熱海は江戸時代徳川家にこよなく愛された温泉でした。8代将軍の吉宗はのべ3643樽ものお湯を熱海から江戸に運ばせ、その湯を楽しんだとされています。そして、明治時代以降は皇室の御用邸が出来たことでさらに発展をとげ、それ以外にも伊藤博文など有名な政財界の人がたくさん来るようになり、たくさんの別荘が熱海に出来たと言います。それらのセレブが愛した熱海が、大衆にとって一度は行きたいあこがれの場所となっていったのです。というわけで熱海駅の北側にある桃山町に向かいました。ここは大正時代に開発された古い別荘地です。当時、建てられた建物があり、今も実際に使われています。
 当時のセレブ達は熱海の別荘に何を求めたのでしょうか?さっそく庭へと出てみると…熱海の海が見えます。ここで手を前に出して拳をまっすぐ突き出してみると、ここからの景色は見ている視界で上下の範囲の角度が、だいたい10度だそう。さらに今度は手のひらを広げ、立ててみると、角度は20度に。実は別荘地から見た熱海の海は“見込み角”が15度であり、景観工学的に人間にとって一番見やすい角度だというのです。

 このセレブをうならす熱海の名は、次第に大衆にも浸透していきました。そんな風光明媚な熱海ですが、熱海の中心部にはビルが多く温泉街らしい木造建築がほとんどありません。一体なぜなのでしょうか?高柳先生によると、「昭和25年に熱海大火という大火がこの辺全体を燃やしてしまった」ことが原因だと言います。街の4分の1を焼いた大火。しかし、熱海はその逆境をうまく利用したのです。都市計画でコンクリート先進的な東京都のような町づくりが行われ、コンクリートでつくったホテルに泊まりたいといったニーズにこたえてきました。結果、近代的なものにあこがれて全国から多くの人が来たと言います。
 1960年代に熱海の温泉協会が制作したPRフィルムを見てみると…熱海の街で新婚旅行や社員旅行のお客さん達が楽しむ様子が宣伝されています。しかし、その楽しみ方は温泉情緒ではなく宴会や夜の街、そして当時の流行を追うものばかり。驚くべきことに全20分の映像の中で、温泉のシーンが映っているのは僅か10秒程度!しかし、こうした街づくりが当たり、1958年から60年のたった2年間で、宿泊客数は250万人から350万人へと激増。熱海はまさに黄金時代を迎えることとなったのです!

観光客が激増!なぜ急激な成長に耐えられた?

 熱海の隆盛を支えてきたものが見られるということで、熱海の歴史に詳しい高柳先生に案内されたのが・・・熱海図書館。そして、図書館の裏手にある熱海市営温泉の第一号となる「蜂須賀湯」へ。熱海市では60もの源泉が市によって管理されており、水道と同じように温泉が家庭や宿泊施設に供給されています。昭和2年に作られた熱海の地図を見てみると…ちょうど今図書館が建っている場所には蜂須賀家の別荘がありました。この別荘で関東大震災の時に湧き出したお湯が沢山ありすぎて、その管理を熱海の行政にお願いしたというのです。

 当時の書類を見てみると…「この温泉を熱海町有となし」と書かれています。高柳先生によると、「申し込みさえすれば誰でも利用できインフラがあることが外部から色んなホテルの経営者とかが来た時に温泉の権利を買わなくてもホテルなどを経営することができるので、そういった点では、非常に開かれた温泉場」と言います。開かれた温泉市場がかつての膨大な数の温泉客を受け入れるだけの施設を作ることを可能にしました。

熱海の人気“V字回復”のヒミツとは?

 熱海の町には、人を楽しくさせるさまざまな工夫があるそうです。
 例えば、2004年に整備された駅前の足湯は、旅人に温泉地に来たという実感を与えてくれます。大勢の人が楽しそうに足湯に入っているのを見るだけで楽しくなり、さらに自分も入ってみたいと思うようになるそうです。
 さらに、同様の工夫を駅前の商店街でも発見。それが…この道のド真ん中に置かれたベンチ。そのベンチに買い食いをする観光客が座ると、それを見た他の人まで楽しくなったり、買い物をしたくなるということ。堀先生は、「道路のホスピタリティ表現。つまり車よりも人間を大事にしているという形をつくることが非常に重要」と解説。ベンチを並べるだけでおもてなしの心をうまく表現しているというのです。

 続いての工夫がこの海岸線にある「親水公園」。ヨットハーバーや遊歩道として整備された、多くの人々が行き交う憩いの場です。しかし本来の重要な目的があるというのです。高柳先生によると、「実はここの役割は防潮堤の役割がある」と言います。実はこの遊歩道は、背後にある街を守る為の堤防だったんです。堀先生によると、「街を楽しみながら歩く道のことをプロムナードという。ここは防潮堤なんだけれどプロムナードをつくって、いいところでしょ?どうぞゆっくり楽しみながら歩いて、座って、ゆっくり海を眺めてくださいというおもてなしの表現をしている」だそうです。これも観光客を楽しませるホスピタリティ表現の1つです。

 そして、熱海が再び盛り上がりを見せるようになったもう一つの理由を商店街で発見。それは、古い施設をリノベーションして作った施設。高柳先生によると、「ここ一帯は熱海銀座という商店街なんですが、シャッター街が最近ずっとあった」と言います。
 それらの空き店舗だった場所をリノベーションして活用しようという動きが熱海の若者達の中で盛り上がりつつあります。ある空き店舗はゲストハウスとしてよみがえりました。シンプルなかっこよさが受け、とても安く宿泊することもでき、若者に大人気です。さらに、50年以上続く温泉ホテルを、温泉テーマパークを運営する会社がリノベーションしたケースも。大宴会場をバイキング会場にするなどし、賑わいを見せています。そして、こちらはリゾートマンションとして開発された建物を現代的なホテルにリノベーションしたケース。著名人たちが別荘地として愛した熱海が醸し出す、大人がくつろげる落ち着いた空間の雰囲気が人気を集めています。
 これらのリノベーションが可能になったのはかつての建物が多く残っていたからこそ! つまり、現在の熱海の盛り上がりは…行政による温泉都市としての街作り、地元住民達によるおもてなし、リノベーションをしやすい環境などの、相乗効果によって生み出されていたのです。