第1622回 2022.04.24 |
世田谷ベースSP[Part2] | 場所・建物 |
今週も前回に引き続き、かがくの里特別篇!世界的建築家、隈研吾さんが世田谷ベースにやってきたスペシャル!隈さんといえば、設計に関わった国立競技場をはじめ、国内外で様々な建築物を手がけるすごい方!そんな世界に誇る隈研吾さんが!なんと、かがくの里母屋プロジェクトに参加してくれることになったんです!
前回は、世田谷ベースの庭で、人参の種まき!さらに完熟した沖縄名産シークワーサーもいただきました。
今回は、隈研吾さんが世田谷ベースに来たスペシャル!パート2です!
隈研吾さんが世田谷ベースにやって来た!SP②
庭での楽しみはまだまだ続き、案内したのは、ビニールハウス。ここでは、ルッコラを収穫。他にも所さんが普段から食べているもの、それがパクチー。このルッコラとパクチーをホットドッグに挟んでいただきます。
さらに、所さんが隈研吾さんのために作っていたのが、特製ステンシル!さらには、息子さんへジャケットのプレゼントに、椅子のプレゼントと怒涛のプレゼント攻勢が続きました!
続いては、隈研吾さん所さんの対談の続きです。
隈さんの建築家の原点には、里山との関わり、そして木造建築との出会いがあったといいます。少年時代、横浜市大倉山の里山で育った隈研吾さん。建築家を目指すきっかけになったのが、1964年の東京オリンピック。
当時10歳だった隈さんは、父親と共に行った国立代々木競技場の外観や水泳の競技場の姿に衝撃を受け、建築家になって人々を感動させたいと決心したそうです。
その後、建築家の道を歩み始めた頃、日本は高度成長期、そしてバブル期でコンクリートの巨大建築が主流になっていました。人工的で大きい、自然と切り離された当時の日本の建築に疑問を感じていたと言います。
そんな隈さんが、自らの建築の中心に置いたのが、日本の伝統的な木造建築。そして日本の森の力を最大限に生かす「木組み」でした。
「木組み」とは、細い木を組み合わせて柱や梁などを作る、日本の木造建築の根幹にある技術。この技術があれば、里山の力を最大限に利用することができると言います。
里山の間伐材として出る、細くて短い「小径木」。そのままでは建築に使えない小径木を、木組みの技術で組み合わせることで、頑丈で長い建材にすることができ、間伐材も無駄にならない!まさに一石二鳥!
そんな隈さんの木造建築の原点となる「場所」があります。四国、高知県の山奥にある小さな集落、愛媛との県境にある梼原町。今回、目がテンはこの町を訪ねました。
1987年、隈さんがこの町で出会ったのは、木造の芝居小屋“ゆすはら座”。
戦後復興期、宿場町として賑わっていた梼原に建てられたものです。この芝居小屋を見て“木組みの美しさ”と“大工の技術”に圧倒され、また自分が育った家のような懐かしさを感じたといいます。
そして「土地の木を使い、里山の力を信じれば、もう一度建築は大地とつながれる」と考えました。
その後、梼原町で様々な木造建築を手掛けることになっていきました。町の総合庁舎も、そのひとつ。建物の至る所で木の美しさを感じる作り。細い4本の木を組み合わせ、頑丈な1本の柱にする「組柱」という技法。これも「木組み」の技術のひとつです。
天井にも細い木を組み合わせて強度を増すなどの工夫。「木組み」の技術で小径木が柱や梁の役割を果たしているんです。使用している木材の9割以上は、梼原の山からとれたもの。地元の里山の資源を無駄なく使っているんです。
森の中で本を読んでいる気分になれる、「雲の上の図書館」。印象的なのは天井の大量の木。
できるだけ広い空間を作りたいという思いから、柱を少なくする為の梁の役割もあるんです。さらに靴を脱ぎ、素足で木の感触を楽しめ、木の暖かさが感じることができるそうです。他にも町の9割が森である梼原の風景に溶け込むように作られた「雲の上のギャラリー」。
こうして町には隈さんが設計した建物が6つ建てられました。「梼原は木と最初に出会った場所で、木の恩人みたいなもの。木を大事にして生きるという哲学を教えてもらい国立競技場の案につながった」と隈さんは語っています。
東京2020オリンピックに向け、隈さんが設計にかかわった国立競技場。“杜のスタジアム”とも呼ばれ、決して太くない「小径木」を使ったのきびさしは全国47の都道府県の里山から、1本1本木材を取り寄せて作りました。
細く華奢な間伐材をうまく使うことで森も守る、「自然と共生する未来のシンボル」となっているのです。
そしてなんと、所さんがこの日のために、新曲を作ったそう!タイトルは「木組みの歌」。素敵な歌が聴けたところで本日はここまで!次回、隈研吾さんが世田谷ベースにきたスペシャル最終回です!!