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薬害エイズ事件の真実に迫る 勇気を持って声をあげた患者たち

2024.05.14 公開

30年ほど前、新聞やテレビ、週刊誌などで連日報道されていた薬害エイズ事件。当時の厚生省が認めた、血液からつくられた薬を投与し続けた患者たちの内1400人以上がエイズを発症する可能性のあるHIVに感染し、現在までに約700人が亡くなった。一体なぜこんな事態になったのか?再現ドラマで紹介した。

川田龍平さんは、生まれつき血を固めるための因子が不足しているため、出血しやすく一度出血すると血が止まりにくくなる病気・血友病にかかっていた。

生後6ヶ月のときに血友病が判明、何度も内出血が起きた。血の塊が神経や血管を圧迫するため、痛みが出て、夜中でも止血のため病院に行かなければならない。そこで使われる薬品が、血液製剤と呼ばれる人の血液から作り出された薬だった。この血液製剤には血を固める凝固因子が含まれており、これを打つと止血ができる。

そして龍平さんが3歳7ヶ月の時、母が医師に「新しい薬を使ってみませんか?」と提案された。濃縮凝固因子製剤と呼ばれる加熱処理されていない薬、いわゆる非加熱製剤だった。これまで使用していた薬よりも血を固める凝固因子が多く含まれ、止血効果が高かった。

出血を予防でき、まさに血友病患者にとって夢の薬だった。しかし、この薬が多くの人々の命を奪うことになる。

新しい血液製剤を使い始めて7年経った1986年1月。衝撃の言葉が医師から告げられる。「HIV陽性です。エイズウイルスに感染しています」という。このとき龍平さんは10歳だった。

この濃縮血液製剤の原料はアメリカから輸入されており、使用される血液は、主に血液を売る人から集めていた。そして、数千人~数万人の血液をまとめて血液製剤を作っていた。つまり、万が一その中にHIV感染者がいればそこで作られた全ての血液製剤に HIV感染の危険があったのだ。

龍平さんのHIV感染が明らかになる4年前、母親は「同性愛の男性と、血友病患者に広がる、ある奇病」という記事を目にしていた。この奇病とは「後天性免疫不全症候群」、略してエイズと呼ばれていた。その奇病が血友病患者に広がっていると母親は4年前に知っていたのだ。

そしてすぐにそのことを医師に確認していた。が、医師も病院側も正しい情報を持っていなかった。そのため、龍平さんにはHIV感染の危険があった血液製剤が使われ続けた。やがてこの血液製剤は自己注射が保険適用になり、病院に通わなくても自宅で予防治療ができるようになっていた。

龍平さんのHIV感染が判明する10ヶ月前の1985年3月、厚生省が海外在住の日本人を初めてエイズの患者と認定。その2ヶ月後には国内で初めてエイズ患者が。エイズと認定された5人のうち、3人は血友病患者だったという。

エイズを発症すると、褐色の発疹が体にできたり、口の中がカンジダという菌により白く覆われたりして、やがて感染症や悪性腫瘍を引き起こし、命を落とす病であると言われていた。

HIVに感染してもすぐに発症するわけではなく、現在では治療法の発展により、HIVに感染しても適切な治療を受ければエイズを発症することはなく、日常の生活を送ることが可能である。だが当時は有効な治療法が無く、死に至る病と考えられていた。

HIVは主に3つの経路で感染する。性行為での感染、血液を介しての感染、母子感染だ。空気感染や接触感染はしないのだが「感染すると死に至る怖い病」というイメージだけが独り歩きをして、人々はパニックになっていた。

さらに、血液製剤を使用しているというだけで「血友病の患者=エイズ」という間違った認識も広がり、龍平さんも小学校で差別を受けていた。

血友病患者に広がるHIV感染。その裏には国と企業の隠蔽と、利益追求主義があった。

龍平さんのHIV感染がわかる1年前、製薬会社・ミドリ十字の血液製剤に関して他社の営業マンが「ミドリ十字のものは輸入の原料を使っているので、エイズの危険性が高いって」と話しているのを聞いた。他社がそのような営業をしていることを知ったミドリ十字社は、アメリカで作られている製剤の原料を国内の原料だとウソのアピールをしろと社員に命じた。

実はこの数年前から厚生省では、アメリカで血友病患者にエイズ患者が増えているとの報道を受け「エイズ研究班」を発足させていた。その一つの会議でアメリカの血友病患者でHIV感染が広がっているので、アメリカと同じ非加熱製剤の使用をやめようという提案を行ったが、「前の薬に戻すのは患者にとっても負担になってしまいます」という医師たちの意見を受け、前の薬に戻す方針はなくなりHIV感染の可能性が高い非加熱濃縮製剤を承認し続けていた。

その2年後、ようやくHIV感染対策の血液製剤が出る。それが加熱濃縮製剤だ。加熱処理をすることで、この薬品からエイズウイルスに感染することを防げ、すでにアメリカでは承認・販売されていた。

こうして日本でも龍平さんのHIV感染がわかる半年ほど前の1985年7月、製薬会社5社の加熱血液製剤が製造・販売の認可を得た。が、製薬会社のミドリ十字では「製造が需要に追いつくか正直分からない」と会社の利益を守るために非加熱製剤も売り続けた。

一方血友病患者は、厚生省に非加熱製剤の回収の申し出を行っていた。しかし厚生省側は「それはできません。非加熱製剤が全部HIVウイルスで汚染されているとは限らないでしょう」と患者目線で考えてくれなかった。こうして非加熱製剤は回収されず出回り、当時の血友病患者の1400人以上がHIVに感染するという薬害事件になってしまったのだ。

そして龍平さんのHIV感染が判明してから1年半、免疫は落ち、体調が明らかに悪化していた。医師はインターフェロン治療を勧めた。

インターフェロン治療とはウイルスの増殖を抑える働きのあるタンパク質を注射によっ
て補充する治療法で、当時エイズの発症を遅らせる効果があると期待されていた。このころ、非加熱製剤によるHIV感染がニュースで大々的に報じられ、社会で大きな問題になりつつあった。

血友病の患者たちがエイズを発症し次々に亡くなっていった。石川県に住んでいた岩崎孝祥さんは非加熱製剤の使用によって12歳でHIVに感染し、高校生でエイズを発症。免疫が低くなっているため様々な病原体で感染症を引き起こし、ニューモシスチス肺炎にも襲われた。さらには両腕・両足に内出血が起こり、激しい痛みを抑えるためにモルヒネが打たれた。

エイズと闘いながらも孝祥さんには、画家になる夢があった。生きている証として絵を描き続けたがやがてペンを持つ力も失われていき、19歳で亡くなった。

そして被害者やその家族たちは、声を上げ始めた。龍平さんが中学2年生になるころ、大阪・東京で非加熱製剤の危険性を認識しながら回収措置を取らなかった厚生省とミドリ十字をはじめとする製薬企業5社を被告として、損害賠償請求の裁判が始まった。

その裁判で、厚生省で発足したエイズ研究班の会議資料を求めたが「エイズ研究班の討議内容と資料は確認できない」という回答。厚生省や製薬会社は責任を認めず、裁判は難航していた。

この頃、原告団で名前や顔を出している人は少なかった。そんな中龍平さんは実名公表と顔出しを決意。友人たちに告白した数ヶ月後、世間にも実名と顔を公表。翌日、公表までの約半年間に密着して撮影された写真集が発刊された。そこにはHIV感染者の龍平さんと当たり前に温泉に入る友人の姿もあった。それらはエイズへの偏見が残る世間に対して、衝撃を与えた。

世間の空気が一気に変わっていく。デモで龍平さんは「厚生省はいまだ、責任を認めず謝罪もしていません。国の責任を明確にしてください」と強く叫び、記者会見では「僕はまだ未発症者で、まだこうして活動できます。だけど未だ活動できない原告がたくさんいます。どんどん殺されていっています。死んでいるのではありません、殺されていっているのです」と世間に問いかけた。

そして事態が変わっていく。1995年7月24日、多くの大学生など若者が活動に賛同し厚生省を取り囲んだ。その数なんと3500人。そこには、亡くなった孝祥さんの母の姿もあった。

世論に後押しされ国会でも追及が始まる。一方、龍平さんたち原告団は国の対応へ怒りを示し、座り込みを決意。HIVに感染し免疫が落ちている彼らにとっては、寒空の中の座り込みは文字通り命がけだった。すると、その最中に当時の厚生大臣だった菅直人氏が原告団に対して全面的に謝罪。さらに、これまで責任を認めてこなかった製薬会社・ミドリ十字の幹部たちは土下座した。

こうして1996年3月29日、薬害エイズ裁判では実質原告勝訴の和解が成立。その後、1985年から1986年にかけてHIVに汚染された非加熱血液製剤によって患者2人を死亡させたとして、ミドリ十字の歴代3人の社長、当時の厚生省生物製剤課長、そして医師でもあったエイズ研究班の班長が業務上過失致死の疑いで逮捕された。

さらにミドリ十字では1985年製造の非加熱製剤を、国内製とするために隠蔽工作が行われていたことが裁判で発覚。社長らは、禁錮1年2ヶ月〜1年6ヶ月の実刑判決を受けた。

厚生省の元生物製剤課長は、薬害の危険を未然に防止する立場にありながら、販売中止や回収を命じることもなくやるべきことを怠っていたとして業務上過失致死の罪で禁錮1年、執行猶予2年が確定。

厚生省エイズ研究班・班長だった医師は、「エイズによる患者の死亡という結果の予見可能性はあったが、その程度は低く、過失があったとは言えない」とし、一審では無罪判決となった。その後控訴するも、心神喪失を理由に公判は停止。無罪判決のまま死亡した。

非加熱製剤で命を奪われた孝祥さんの死から31年が経つ。孝祥さんの母の上野和美さんは「私が息子の手に注射を週3回打っていたんです。息子の体の中にウイルスを注射していたんだという、自分を責めるんですね」と悔しさと悲しみを番組に話してくれた。

そして、龍平さんは当時を振り返り「いつ死んでもおかしくないという中で、必死でやっていたんだなと思います」と振り返る。現在の体調は「元気にやっています。血友病は週1回くらい輸注をし、HIVの薬も1日1回でよくなった」という。2008年に結婚し「特に結婚してから免疫が良くなって、免疫の状態を保つことが、すごく大事だと思った」と語った。

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