なぜ男は残酷な事件を起こしたのか 心の闇が明らかに
1999年の9月8日、正午前の東京・池袋。23歳の男が無差別に通行人に襲いかかり、8人を殺傷した池袋通り魔殺人事件。
事件を起こした造田博は現在、確定死刑囚として収監中。一体、なぜ造田は何の罪もない人たちを襲ったのか?
今回、裁判資料と関係者への取材、さらに造田と25通にも及ぶ手紙のやりとりをしたジャーナリストの資料を基に再現ドラマで紹介した。
1998年6月、アメリカ・オレゴン州・ポートランドで牧師をしている日本人・マイク横井さんの教会に、日本領事事務所から電話が。
「実は今、若い日本人旅行者を保護しているんですが、受け入れ先を探していまして面倒見てもらえませんか?」と言われ、マイクさんは受け入れることに。公園で数日間野宿生活をしていたという男は、造田だった。
荷物はリュックサックのみで、所持金はゼロで数日間なにも食べていなかったという。
マイクさんは食べ物とベッドを与え保護。
マイクさんは友人に「君と同世代くらいの子が今うちにいるんだけど仲良くしてやってくれないかな?」と電話をし、造田は同年代の男性と山で仕事をしている教会関係者の元でしばらく暮らすことになった。平日はキャンプをして過ごし、日曜日は教会へ通う生活をしていたという。
一体なぜ造田は、金も持たずツテもないアメリカにやってきたのか?
その2年前、日本はバブル崩壊後、不景気のどん底にあった。このとき20歳の造田は元々関西で働いていたが、そこを辞めることになったため職を求めて上京。しかし仕事は見つからず、金もなくなり公園で野宿生活をしていたという。
ある日、万引きで捕まり、護身用にナイフを持っていたため銃刀法違反で逮捕され罰金刑に処されていた。
造田はとにかくアメリカに憧れており、アメリカに行くことを目標にしていたという。そんな状況の中、愛知県岡崎市の工場で働くことができたが、真面目に働いていたものの7ヶ月ほど経って突然従業員削減という理由で解雇されてしまう。
それをきっかけに、有り金をほとんど使い格安チケットを購入し、アメリカへ旅立つが、働けるビザを持っていなかったためアメリカで仕事を探すことはできなかった。
この時持っていたのはわずか200ドルだという。
そうして造田は野宿生活となり、ポートランドにある日本の領事事務所に保護されたのだった。
造田はアメリカでの日々を「アメリカはみんな努力している人ばかりで意味なく騒いだり、ちゃかしたり、笑っている人なんていない。ずっとここにいたい」と記していたという。熱心に教会に通い、キリスト教の洗礼も受けた造田の充実した3ヶ月間が過ぎ、観光として滞在できるビザの期限が来てしまう。
日本への航空券の代金は教会が持ってくれ、造田は帰国することになった。
牧師のマイクさんから「僕の日本にいる知り合いの連絡先。きっと君を助けてくれるから」と日本での仕事先の連絡先も渡してもらい、「日本でも頑張るんだよ!」 と送り出された造田。
造田が帰国して1か月後、東京にアメリカで一緒に過ごした同年代の男性も帰国し、牧師が紹介してくれた職場へと向かった。
だが、その職場には勤めていないという。その頃、造田は愛知県で土木作業の期間工をしていた。造田は帰国後すぐに紹介された勤め先に電話をしたが、一度電話をしうまくコミュニケーションがとれなかったことから、造田はそれ以上の連絡を諦めたという。
そしてただただ生きるために仕事をし始め、その状況が造田の心の中に身勝手な憎悪の思いを膨らませていった。
深夜の仕事を終え、家に帰る時には「街に出ると、自分と全く違う生活をしている人ばかりで、ケラケラ笑い…ちゃかして…自分を嫌な目で見てくる。汚れている」と思うようになったという。
1975年、造田は岡山県で生まれ、 父親は腕のいい大工で、母親はミシン裁縫の仕事をしていた。
造田は活発ではなかったが問題を起こすタイプでもない。普通の少年だったが、造田が中学生になった頃、父親が肝臓を壊し仕事を休みがちになり、ギャンブルにハマっていったという。
母親は保険の外交員で生活を支えたが、やがて母親も、保険勧誘の時間つぶしで覚えたパチンコにはまってしまった。
そんな環境の中、造田は必死に勉強をし、クラスで下の方だった成績はトップクラスになり地元で有数の進学校に合格。
一方、高校に入学した頃から、両親のギャンブル癖はひどくなっていき、朝から晩まで夫婦そろってパチンコ店に入りびたり借金を重ねていき、仕事や家庭を崩壊に至らしめるほどだった。
消費者金融や闇金からも金を借り、造田が高校2年のときその額は5000万円にも膨れ上がっていたという。
そして両親は日中家に帰ってこなくなり、消費者金融から取り立てられる日々が続いた。両親はわずかの金を渡しに来るが、その金では生きてはいけないため、迫田は学校へは行かず日中から弁当屋でのアルバイトに専念することになったという。
必死に勉強し、努力は報われると信じていた造田だったが、結局、高校を辞めることになる。そしてついには家財道具の一切を持って、両親は息子を捨て蒸発してしまった。
それ以来、造田は両親と会っていないという。17歳の造田は家を出て、一人パチンコ店に住み込み、働くことになった。パチンコ店は2ヶ月で辞め、清掃員の仕事を始めたがその仕事も長くは続かなかった。次に技能を習得するためか工業系の仕事に就いたが、振られるのは簡単な仕事ばかりで無断欠勤で辞めてしまう。
その後、広島を出て兵庫、岡山、愛知、京都などで照明器具の傘を作る仕事や染物店など様々な職種に就き、最初のうちは真面目に働き、人間関係にも気を遣い、問題を起こさないようにしたという。
造田の中で、努力するのは素晴らしいことで努力せず、怠けている人は軽蔑すべき人と決め、造田は「自分は努力している側の人間」と思っていた。 そして道ゆく人を見ながら「なんでお前たちはのうのうと幸せそうに生きてるんだ?一体…何の努力をしてきたんだ?生きるための努力を何かしてるのか?」と思うようになり、造田の不満はどんどん溜まっていった。
そして、「日本はおかしい…こんな連中しかいないじゃないか…なんで俺の努力が評価されない?こいつらが悪い!!」と思うようになり、1997年に〈日本の人口のほとんどが小汚い者達です〉〈この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります〉 といった内容の手紙を外務省や国連に出している。
こうした日本社会への不満が、造田をアメリカへと向かわせたが、結局、日本で生きるしかなかった。
アメリカから帰ってきて7ヶ月が経った1999年4月、東京都内の新聞配達所に住み込みで勤め始めた。4か月余り配達ミスもなく、営業活動も行い、上司からは平均的な評価を受け、人間関係に気を遣い1度だけ飲み会にも参加している。
また、事件の1週間前には、仕事に遅刻し連絡がつかないと困るため携帯電話を持って欲しいと言われたことで初めて携帯電話を購入したという。それを見た同じ職場の人間から「番号、教えてよ!」と言われ、造田は嫌悪感を覚えながらも番号を登録されてしまう。
そして1999年9月3日深夜、初めて手に入れた携帯電話が嬉しくて遅くまで触っていたところ、着信が鳴る。無言電話だった。せっかく初めて手に入れて嬉しかった携帯電話に無言電話をしてきたことに、自分の気持ちが踏みにじられたと感じ、心の中に溜まっていた怒りが爆発したという。
それは、無差別殺人を実行するということだった。深夜3時、東京で唯一土地勘のある繁華街である池袋へ向かった。
ホームセンターで包丁と金づちと、カムフラージュのためにまな板とドライバーを購入。その日は都内のカプセルホテルに泊まり、それから3日間、造田は池袋の街をぶらつきながら無差別に人を襲えば周りに迷惑をかけることになると葛藤したという。
しかし9月8日に犯行。池袋に買い物に来ていた夫婦の女性を切りつけ殺害、男性を金づちで殴りつけ、重傷を負わせた。また、夫と池袋にいた29歳の女性は突進してきた造田に突如左腰を刺され病院で死亡した。
死者2人・重軽傷者6人。その後、造田は駆け付けた警察官に取り押さえられ逮捕された。裁判では、事件当時の刑事責任能力が争点となり精神鑑定が行われたが、その結果責任能力があると認められ、自己中心的かつ冷酷な発想があるとして、死刑が言い渡され2007年4月に刑が確定した。
当番組では、アメリカで造田を保護した教会を訪ねマイク横井牧師から話を聞いた。「表情は初めからずっと変わりませんでした。ずっと仏頂面だった。ああいう人を見たのは後にも先にもない。一度だけ笑ったことが印象に残っている」という。
造田と25通の手紙をやりとりをし面会もしたジャーナリスト・青沼陽一郎さんによると、造田は手紙の中で日本の学歴社会に主張をしているという。「私は学歴社会はないのがいいと思っています。日本みたいに受験勉強やるのは無駄に点が上がるだけで私はいいと思っていません」と主張する一方で、「5教科で中学3年の時と高校に入った頃のテストの点は学校で一番だったかもしれません」と自分の学業成績へのこだわりを見せているというのだ。
青沼さんは「なぜ事件を起こしたんですか?と聞くと、彼はそれについては答えてこない。ただ手紙の往復をしている間に危害を加えるということについて唯一触れている」といい、その手紙には「私は他の人に危害を加えるのと危害を加えないのとでは、すごく違うと思っています。他の人に危害を加えるのがだめな方で危害を加えないのがいい方です。間違えると困るのでもう一度書きます。他の人に危害を加えるのが×で、危害を加えないのが〇です」と書かれていたという。さらに、ほとんどの手紙の最後には「私の思ったことを適当に書いただけなのであまり深刻に考えないでください」という一文が添えられていたそうだ。
それに対し青沼さんは「あまり深刻に考えないでくださいというのは、どこかで自分を伝えたいんだと思う。心のうちを知ってほしい。もっと言えば自分のことを知ってもらって濃厚な人間関係を作りたいんだけど自分をさらけ出しちゃったことで嫌われるのが嫌なんだと思います」と推測した。
過去にどんな人生を送っていたとしても、自分勝手に人に対する憎悪を増幅させ、なんの罪のない人たちの未来を奪ったことは到底許されるものではない。