戦後80年…「疎開児童からの手紙」戦争が与えた影響
戦後80年となる2025年
私たちは
「いまを、戦前にさせない」をテーマに
様々な特集をお伝えしています。
都内に住む、
元小学校教師の飯塚義一さん101歳。
○櫻井
「すごいですね、これ全部…」
“心の支え”になったのが
この教え子からの手紙でした。
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「うれしかったですね
いつまでも僕のことを忘れないでいてくれる
うれしさがありました」
19歳で、小学校にあたる
国民学校の先生になった飯塚さん。
1943年10月に
いまの東京・港区にある
「青南国民学校」に赴任。
4年生のクラスを担当することに。
○櫻井
「これは鉄棒の写真ですか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「これ全員です」
○櫻井
「こちらにいるのが先生ですか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「子供たちは全員名前を
フルネームで覚えていました」
○櫻井
「教師になられて、毎日どうでしたか?
楽しかったですか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「日曜日がつまらないくらい
子供たちと一緒にいるときが
楽しかったですね。
本当に子供と一緒にいるときが
幸せでした」
しかし1944年8月、ある転機が…。
アメリカ軍の空襲に備えるため、
子供たちを集団疎開させることが
決まったのです。
いまの調布市にあたる神代村で
始まった疎開生活。
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「一緒に寝て
同じ部屋で食事もして勉強して」
しかし、それも長くは続きませんでした。
1944年10月、戦況が悪化するなか
飯塚さんは、
陸軍予備士官学校に入ることになったのです。
そこからの8か月、
子供たちからの手紙が絶えず届きました。
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「(1日に)多いときは4通くらい来ました。
兵隊が『手紙です』って持ってくると
『飯塚先生、飯塚先生、飯塚先生』って
僕のばかりで、
みんなにうらやましがられました」
子供たちから、
引き出しに入りきらなくなるほど、
届いたという手紙。
その数345通。
○篠倉正信さん(1944年11月27日着)
「きょうは算数をやりました。
急に難しくなったような気がしましたが、
うれしくてたまりませんでした」
○飯島善次郎さん(1944年11月12日着)
「お兄ちゃまお元気ですか。
僕も元気で毎日を過ごしています」
また、大好きな先生を思い浮かべたイラストも。
むじゃきな日常をつづった手紙。
しかし、そのなかには…。
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「だんだんに空襲・戦争の話が
多くなってきて」
戦争の影響を感じる内容も。
○林一美さん(1944年11月27日着)
「僕は早く大きくなって少年飛行兵になって
お国のために尽くします」
○飯島善次郎さん(1945年2月21日着)
「先生早く立派な兵隊さんになって
憎いB29を全部落としてしまって下さい」
3月10日の東京大空襲の様子を
つづった手紙には…。
○渡部英彦さん(1945年3月17日着)
「火災は10日の晩になっても
一部分燃え続けていました」
○小川 充さん(1945年3月17日着)
「僕達は寮の窓から
延々と燃える東京を見ながら
『きっと立派な軍人になり
お国のためにご奉公をしようと』
皆誓いました」
○櫻井
「手紙の内容が変わっていったことを
先生はどう思いましたか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「子供たちが無事でいられるように、
と思いました。
自分もつらいけど
子供たちはもっとつらいんだな
と思いましたね」
ほかにも、当時の手紙には…。
○杉本 洋さん(1945年2月25日着)
「敵機が1機落ちていったのを見て
おどりあがって、喜んでしまいました」
○鈴木喜三郎さん(1945年4月9日着)
「ぼくたちは6年生になりました。
もうあと5年間で
僕達は特攻隊になれるのです」
敵が目の前で死んだかもしれない様子を喜び、
また死と隣り合わせの特攻隊に
“あこがれる”言葉が…。
手紙には、
互いの命の感覚が”麻痺“していくような内容が
つづられていました。
○櫻井
「子供たちも『特攻隊になります』という
手紙もありましたけど
手紙を読んだときはどう感じましたか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「子供にこんなことを考えさせることは
絶対にないようにしたい、と思いました」
飯塚先生の教え子の1人は
のちに東京大学の総長になった
吉川弘之さんです。
吉川さんが、飯塚先生にあてた
はじめての手紙では。
○吉川弘之さん(1944年12月8日着)
「エイ、ヤアと毎日
元気のいい声で剣道やります。
防空頭巾をかぶってやるので
脱ぐと湯気が立ちます」
ただ、その3か月後には。
○吉川弘之さん(1945年3月1日着)
「僕達も早く大きくなって
米英撃滅に邁進したいと思います。
子供でも今では頑張らなければ
いけませんね」
○櫻井
「どういった子供でしたか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「おとなしい、あまり目立たない子でした」
○櫻井
「そういった子が
『米英撃滅』まで書くのは想像できますか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「こういう強いことを書いているのは、
驚きました」
手紙の内容が変化していった理由について
吉川さんは。
○飯塚さんの教え子の1人
東京国際工科専門職大学 名誉学長
吉川 弘之さん(91)
「戦争は勝つか負けるかしかない。
その頃は、みんな
勝たなきゃいけないと思っていました。
勝たなければ家族がみんな殺されてしまう。
子供なりに考えていました。
そういう立場に立つと
友達の間では“弱虫の吉川”だけど、
自分の心の中に捨てられないものが
芽生えてきた気がします。
人類が最後にほろびる道なんです、
戦争というのは、間違いなく。
それをもう少し若い人にも
考えてほしいです」
戦後、教師に復帰し
40年教育にあたった飯塚さん。
○櫻井
「戦争を知る先生として
今の子供たちに伝えたいことは何ですか?」
○元小学校教師
飯塚 義一さん(101)
「101歳になって
教壇に立つことはないですが、
もし先生になって、
子供たちに教えることがあったら
戦争は絶対にしてはならないことだと
そういう教育をしたいと思います」
※「疎開児童からの手紙」は
飯塚義一さんの寄贈により、
現在は調布市郷土博物館が所蔵し、
一部を展示しています。