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戦後80年…「疎開児童からの手紙」戦争が与えた影響

2025.03.03

戦後80年となる2025年
私たちは
「いまを、戦前にさせない」をテーマに
様々な特集をお伝えしています。


都内に住む、
元小学校教師の飯塚義一さん101歳。

○櫻井
「すごいですね、これ全部…」


“心の支え”になったのが
この教え子からの手紙でした。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「うれしかったですね
 いつまでも僕のことを忘れないでいてくれる
 うれしさがありました」

19歳で、小学校にあたる
国民学校の先生になった飯塚さん。

1943年10月に
いまの東京・港区にある
「青南国民学校」に赴任。
4年生のクラスを担当することに。

○櫻井
「これは鉄棒の写真ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「これ全員です」

○櫻井
「こちらにいるのが先生ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供たちは全員名前を
 フルネームで覚えていました」

○櫻井
「教師になられて、毎日どうでしたか? 
 楽しかったですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「日曜日がつまらないくらい
 子供たちと一緒にいるときが
 楽しかったですね。
 本当に子供と一緒にいるときが
 幸せでした」

しかし1944年8月、ある転機が…。
アメリカ軍の空襲に備えるため、
子供たちを集団疎開させることが
決まったのです。

いまの調布市にあたる神代村で
始まった疎開生活。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「一緒に寝て
 同じ部屋で食事もして勉強して」

しかし、それも長くは続きませんでした。

1944年10月、戦況が悪化するなか
飯塚さんは、
陸軍予備士官学校に入ることになったのです。

そこからの8か月、
子供たちからの手紙が絶えず届きました。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「(1日に)多いときは4通くらい来ました。
 兵隊が『手紙です』って持ってくると
 『飯塚先生、飯塚先生、飯塚先生』って
 僕のばかりで、
 みんなにうらやましがられました」

子供たちから、
引き出しに入りきらなくなるほど、
届いたという手紙。
その数345通。

○篠倉正信さん(1944年11月27日着)
「きょうは算数をやりました。
 急に難しくなったような気がしましたが、
 うれしくてたまりませんでした」

○飯島善次郎さん(1944年11月12日着)
「お兄ちゃまお元気ですか。
 僕も元気で毎日を過ごしています」

また、大好きな先生を思い浮かべたイラストも。

むじゃきな日常をつづった手紙。
しかし、そのなかには…。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「だんだんに空襲・戦争の話が
 多くなってきて」

戦争の影響を感じる内容も。

○林一美さん(1944年11月27日着)
「僕は早く大きくなって少年飛行兵になって
 お国のために尽くします」

○飯島善次郎さん(1945年2月21日着)
「先生早く立派な兵隊さんになって
 憎いB29を全部落としてしまって下さい」

3月10日の東京大空襲の様子を
つづった手紙には…。

○渡部英彦さん(1945年3月17日着)
「火災は10日の晩になっても
 一部分燃え続けていました」

○小川 充さん(1945年3月17日着)
「僕達は寮の窓から
 延々と燃える東京を見ながら
 『きっと立派な軍人になり
 お国のためにご奉公をしようと』
 皆誓いました」

○櫻井
「手紙の内容が変わっていったことを
 先生はどう思いましたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供たちが無事でいられるように、
 と思いました。
 自分もつらいけど
 子供たちはもっとつらいんだな
 と思いましたね」

ほかにも、当時の手紙には…。

○杉本 洋さん(1945年2月25日着)
「敵機が1機落ちていったのを見て
 おどりあがって、喜んでしまいました」

○鈴木喜三郎さん(1945年4月9日着)
「ぼくたちは6年生になりました。
 もうあと5年間で
 僕達は特攻隊になれるのです」

敵が目の前で死んだかもしれない様子を喜び、
また死と隣り合わせの特攻隊に
“あこがれる”言葉が…。

手紙には、
互いの命の感覚が”麻痺“していくような内容が
つづられていました。

○櫻井
「子供たちも『特攻隊になります』という
 手紙もありましたけど
 手紙を読んだときはどう感じましたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供にこんなことを考えさせることは
 絶対にないようにしたい、と思いました」

飯塚先生の教え子の1人は
のちに東京大学の総長になった
吉川弘之さんです。

吉川さんが、飯塚先生にあてた
はじめての手紙では。

○吉川弘之さん(1944年12月8日着)
「エイ、ヤアと毎日
 元気のいい声で剣道やります。
 防空頭巾をかぶってやるので
 脱ぐと湯気が立ちます」

ただ、その3か月後には。

○吉川弘之さん(1945年3月1日着)
「僕達
も早く大きくなって
 米英撃滅に邁進したいと思います。
 子供でも今では頑張らなければ
 いけませんね」

○櫻井
「どういった子供でしたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「おとなしい、あまり目立たない子でした」
○櫻井
「そういった子が
『米英撃滅』まで書くのは想像できますか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「こういう強いことを書いているのは、
 驚きました」

手紙の内容が変化していった理由について
吉川さんは。

○飯塚さんの教え子の1人
 東京国際工科専門職大学 名誉学長
 吉川 弘之さん(91)
「戦争は勝つか負けるかしかない。
 その頃は、みんな
 勝たなきゃいけないと思っていました。
 勝たなければ家族がみんな殺されてしまう。
 子供なりに考えていました。
 そういう立場に立つと
 友達の間では“弱虫の吉川”だけど、
 自分の心の中に捨てられないものが
 芽生えてきた気がします。
 人類が最後にほろびる道なんです、
 戦争というのは、間違いなく。
 それをもう少し若い人にも
 考えてほしいです」

戦後、教師に復帰し
40年教育にあたった飯塚さん。

○櫻井
「戦争を知る先生として
今の子供たちに伝えたいことは何ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「101歳になって
 教壇に立つことはないですが、
 もし先生になって、
 子供たちに教えることがあったら
 戦争は絶対にしてはならないことだと
 そういう教育をしたいと思います」


 

※「疎開児童からの手紙」は
 飯塚義一さんの寄贈により、

 現在は調布市郷土博物館が所蔵し、
 一部を展示しています。

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