委員からのご意見
|
[糸井重里]
|
|
実感は、不思議なもので。
糸井重里
「新しい番組評価基準を考える会」に出席している間、
会議の内容を自分のあたまで整理しながら、
ああでもないこうでもないと、
他のメンバーの話を聞いているのですが、
ときどき、国会議員ではありませんが、
ひょいと、ぼーっとしているときがあります。
そういうときに、思うのです。
ごく一般的にテレビに親しんでいて、
それなりにテレビが好きで、
ま、けっこうテレビを信用してて、
なおかつ、それなりに信用してなくて、
テレビがもっとよくなればいいなぁ、と、
漠然と思っているような視聴者がいたとしてね、
つまりは、うち実家のかあちゃんのような人が、
ここに参加していたとしたら、何を思うんだろうなぁ、と。
激しく醒めたことを言えば、
視聴率をごまかす人がいて、それが発覚したときに、
日本全国の「うちのかあちゃん」は、
あんまりびっくりしなかったと思うのです。
「あ、そうなんだ。そういうこともあるんだろうな」と、
いわば、「へーえ」と感じて、
騒ぐ人がいなくなったら忘れてしまっているのだろう。
そんなことじゃいけない、と批判するのは容易いけれど、
テレビの「視聴」を支えているのは、
ほとんどがこういう人間なのだと、ぼくは思う。
何を隠そう、これは日常の生活者としての、
ぼく自身の像でもある。
そんなふうな気持ちと、
この会議での熱心で興味深い話し合いとの間に、
何があるのだろうか、と、ぼーっとしたぼくは考えていた。
「新しい番組評価基準を考える会」のミーティングは、
とても知的で、十分に興味深くて、
ぼく自身も、その場の参加者として消極的とは言えない
発言を何度かくりかえしていた覚えがある。
だが、より実感的には、
ぼーっとしているほうのぼく自身や、
「うちのかあちゃんたち」の考えていることが、
歴史の流れというものに見えて仕方がない。
最終的な答申案は、とてもよくできたものだと思う。
そうその通り、と読みながら思ったものだ。
それなのに、読みながらまたぼーっとしてしまう自分を、
ぼくは否定する気になれないでいる。
「もうしわけないとは、こういうことさ」
などと言ってみるけれど、
けっして不まじめなわけではないとは、
胸を張って言えるのが、またもうしわけない。
|
[大石 静]
|
|
「新しい番組評価基準を考える会」での議論を通じて、私は以下のことを確認した。
○あらゆる表現の「質」は、数値化できるものではない。
委員の議論は、このことを確認するためにあったと、私は思っている。
○「視聴率」は、ひとつの目安として、興味深い調査ではある。
個人的には、視聴率の誤差の大きさを知って、愕然とした。
ビデオリサーチ社には、誤差の範囲をより明確に、より積極的に表示してもらいたいと考える。
とはいえ、広告主、広告業者、テレビ局が、営業上の取引の目安として、視聴率を用いることは自由だし、番組の創り手も、視聴率を参考にするのは自由である。
ただ、「質」の評価は、創り手と受け手ひとりひとりの、独自の判断にゆだねるものなのだという、当たり前の認識を、創り手や受け手の多くが見失ったことに、今日の視聴率至上主義が生まれた要因があると感じている。
新聞や雑誌など他メディアも、視聴率分析より、独自の批評眼で、番組批評を展開して欲しい。
○創り手を大事にしない組織に、未来はない。
番組は組織が創るものではなく、独立した個人からなるクリエーター集団が創るもの。放送文化の多様性や独創性の確保は、そのことを抜きにしては考えられない。
視聴率買収事件を起こした人を、養護する気は毛頭ないが、この事件を知った時、組織の論理の前で苦悩した製作者の姿が、私には垣間見えた。
日本テレビさんには、クリエーターがのびやかに仕事のできる環境を、さらにととのえられるよう、切に望みたい。
|
[楠田枝里子]
|
|
答申にも記されているように、時代は大きく変わりつつあるのでしょう。
しかし一方、現実問題として、テレビ番組制作の現場では、今日も視聴率の1%に一喜一憂し、そんな日常の中から、起こってはならない種々の問題が相次いでいることも、また事実。
こうした制作環境の改善のために、関係各社には考えられることはすべて試みて、信頼の回復に努めてもらいたいと、願っています。
たとえば、視聴率調査のサンプリング数600は、これで良しとする見方もありますが、とても足りないという声も多い。批判的な意見に対してこそ、今、誠実な対応が望まれるのではないでしょうか。経費がかかることがネックになっているようですが、身を切る覚悟がなければ、信頼を取り戻すことは難しいと思うのです。
制作サイドが、ひとりでも多くの人に見てもらえる番組作りのために、最大限の努力、工夫をしていることは勿論ですが、単なる"商品"と言われてしまうことには、私自身はいささか抵抗があります。厳しい視聴率競争の中で、志を持って伝えるべきことを伝えようと、多くのスタッフが戦っている・・・。しかし、そんな思いがどれほど正当に評価されているかというと、はなはだ疑問です。
当考える会において、それぞれのメンバーの考えが、けしてひとつではなく、多種多様な評価軸があることを確認し、それこそが、新しい基準を提示することに?がるのではないか、と感じました。
出版物に説得力のある書評が存在するように、確立したテレビ評がほしい。さまざまな人が、それぞれの切り口で、番組を評価し、責任を持って(記名で、あるいは顔を出して)、公表する。新たなテレビの捉え方、楽しみ方、味わい方の、更なる扉を開いてくれるのではないでしょうか。業界内だけでなく、一般的な話題ともなるような、魅力的な展開を望みたいものです。従来の、単なる番組紹介や感想のレベルではなく、深い分析力を持った、成熟した番組評論の世界が広がっていくことを、期待しています。それが、制作者への応援歌となり、番組を育てる力となり、21世紀の放送文化をより豊かなものにしてくれるように。
|
[重延 浩]
|
|
日本テレビは「報道」と「娯楽」を放送目的としている。「報道」や「娯楽」を目的とすることは大切な放送の使命ではあるが、全ての地上波民間放送が、同じ目的に向かっているように見える。放送の多様性を考えるとき、どこかに個性的な放送局があって良いように思う。視聴率を至上の目的としない「個性的報道」や「個性的娯楽」、「国際情報」、「地域情報」、そして「教養」や「教育」をも目的とするような民間放送局は日本ではありえないのだろうか。個性的な放送局が他国にあって日本になぜないのだろうか。作家性のあるドラマ、作家性のあるドキュメンタリー、実験的バラエティ、すぐれた子供番組など、それはそれできわめて面白い番組を制作できる才能を持つ制作者はまだまだいるが、放送にその特異な才能を発揮する場が与えられていない。私は、どうやらもうひとつの民間放送局が必要ではないかと思いはじめている。しかし、こんな発言は放送行政上、どうやら非常識発言らしい。日本では、考えても無駄なことなのだろうか。
|
[鈴木敏夫]
|
|
テレビ放送が始まって五十年。常に我々の生活と共に進化を続けてきたテレビは今、時代の節目に大きな変革を迫られ、その存在の意義を大きく問い直されている。
テレビを視聴する世代は五十代以上の高齢者層へとシフトし、若年層のテレビ離れが指摘されている。また、インターネットの利用時間帯が、深夜から午後八時台へと移り、「ゴールデンタイム」と呼ばれる時間帯に若者がテレビを観ていないという、新たな現象も報告された。
その一方で、この過酷な時代、視聴率獲得競争は加熱の一途を辿りつつある。今や民放では、早朝からゴールデンタイム迄、殆どワイドショー中心の生放送番組が占め、刹那的な視聴率獲得競争が行われている。
そういった状況下では、テレビ放送の新たな価値基準をどのように設けるべきか。
番組の質そのものを評価する「視聴質」や、首都圏で600世帯ある視聴率調査世帯の枠を日本国民全体に拡げる「個人視聴率」の設定なども考えられうる。しかし、番組の質とは相対的なものであり、視聴者の嗜好は数値によって推し量れない。ましてや、それを個々人の嗜好にまで拡げるということは、視聴率の拡大解釈に過ぎず、更に大きな均一化を生みかねない。本来情報とは、未だ見ぬ価値観と感動を、送り手側が判断し、発信するものである。テレビ放送が再び、作り手、受け手双方にとって幸福な媒体となる為に、ここでは「ニッポン・テレビ大賞」の設立を提案したい。
同賞は、娯楽(エンターテインメント)と教養(カルチャー)の二部門から成る。受賞対象は、作品および、作品に対して創作的に寄与したスタッフ(プロデューサー・ディレクター・カメラマン・脚本・構成、等)。
正賞は、娯楽部門・一億円、教養部門・五千万円。これらは受賞者個人に与えられる賞金ではなく、受賞スタッフが新たな作品を自由に制作する為の制作費とする。副賞は、日本テレビのゴールデンタイム一時間枠とし、受賞作品を全国に放送する。
選考基準は、普遍性と時代性。娯楽部門・教養部門共に、現代と切り結び、世界と人間に対する深い洞察を織り込んだ作品を選出する。選考委員は、テレビ放送の歴史に深く関わり、制作現場において作品に創作的に寄与した方々に依頼したい。
受け手にとっては、視聴率とは別の価値基準で評価された作品を目にする大きな機会となり、作り手にとっては、視聴率には左右されない新たな作品を世に出す機会となるはずである。
|
[鈴木嘉一]
|
|
活字メディアの人間として
鈴木 嘉一
ある民放キー局は春と秋の番組改編期になると、自局の制作陣と放送担当記者たちとの懇談会を開いている。第一線の作り手と語り合ういい機会と思って参加したものの、かなり失望させられたことがある。ドラマからバラエティ、スポーツ、情報系の番組まで、多くのプロデューサーたちが次々に登壇し、短いスピーチをした。しかし、その内容たるや、「15%でスタートし、2週目には1%上がった」「今回のリニューアルではぜひ2ケタに乗せたい」などと、大半が視聴率の話題に終始したからだ。
視聴率の高低が広告収入に直結する民放の世界にあって、制作現場の人間がその数字に一喜一憂せざるをえない事情は理解できる。局内の会議なら、こういう発言が飛び交ってもおかしくはないが、視聴率は本質的にはあくまでも業界内の物差しであり、価値に過ぎない。あえて言えば、私たちのような第三者にとっては1%上がろうが下がろうが、どうでもいい話だ。
私がその場で聞きたかったのは、番組の中身について作り手の確信や思いの深さだった。なぜ自分たちの言葉で、見るに値する番組だということをもっとアピールしないのだろう。「すべては視聴率をとるための手段で、数字こそが唯一絶対の尺度」という視聴率至上主義の重圧はここまできたか、との思いを深くしたものだ。
断っておくが、この局は日本テレビではない。「視聴率よりほかに神はなし」という〝一神教〟の支配は民放全体で加速し、日本テレビの視聴率不正操作問題の背景には、こうした構造的な要因が横たわっていると思われてならない。
日本テレビの不祥事をめぐって、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」も同様の問題意識を抱き、昨年12月、「放送と人権等権利に関する委員会」「放送と青少年に関する委員会」「放送番組委員会」の3委員長による5項目の提言をまとめた。その中には「新聞や雑誌は視聴率至上主義の増幅に加担しないでほしい」という項目もあった。
また、日本テレビの「新しい番組評価基準を考える会」の会合でも、複数のメンバーから「新聞や雑誌は事あるごとに、民放の視聴率一辺倒を批判する。その一方では、視聴率ランキングをそのまま載せるなど、視聴率競争をあおっているのではないか」「もっと番組批評を充実させるべきだ。視聴率とは別の評価軸を署名記事で打ち出してほしい」という厳しい意見や注文が相次いだ。
視聴率の結果にかかわらず、自分自身はその番組をどのように見て、何を感じ、どう触発されたのか。高い視聴率の番組が視聴者の夢やあこがれ、潜在的な欲望、生活感覚といった「大衆の無意識」の反映として一種の社会現象を引き起こす場合には、それをどう分析し、読み解くか――。活字メディアはテレビに対しそうした批評性を手放すな、ということだろう。
個人的には、視聴率の問題と向かい合ったこの半年あまり、放送を担当する新聞記者としてのあり方も問われたように思う。
|
[テリー伊藤]
|
|
私は視聴率というものを肯定的にとらえている。その立場は、この会で議論を重ねた後も変わらない。
テレビを制作する側の人間にとって、視聴率は、社会との大事な接点だ。大学の研究者が、どんなに一生懸命に研究をしても、研究室にこもりっきりで社会との接点を持たなければ、その研究は社会から離れたものになってしまう。それと同じで、テレビ制作者は視聴率という窓がなければ、外の社会が見えなくなってしまうのだ。
ただ、テレビ制作者や広告主は、新しい時代の視聴率を模索しなければいけないこともたしかだ。視聴率を追求するあまりに起こってきた諸問題を解決するのが21世紀のテレビ関係者の大事な仕事だ。
自動車でいえば、20世紀の自動車メーカーは速く走る車をつくることに全力を注いできた。しかし、21世紀はそれを見直して、省エネや地球環境に配慮した「プリウス」のようなハイブリッドカーを世に送り出した。そうすることによって、社会的責任を果たすと同時に「地球にやさしい自動車をつくるメーカー」としてブランドイメージを高めている。
テレビ局や広告主にも同じことが言えるだろう。視聴率に向かって全力を注いできた姿勢を見直して、「番組の質」を考えた番組作りをしていくことが、社会的責任を果たすことであり、それがテレビ局や広告主の企業イメージを高めることにつながるのではないか。
たとえば、日本テレビは広告主と協力して、月に一度でもいいから、「ノー視聴率デー」を実施してみたらどうか。「われわれ日本テレビは、本日の番組については一切、視聴率を問いません。調査もしません。今日一日は、番組の質だけを追求して制作した番組を放送します」
そう宣言して、文字通りに質を追及した番組を考え、作り、放送し、世論の評価を待つ。本会の答申にある通り、「視聴質」を評価する絶対的な基準はないものの、少なくとも、こうした放送を試みたテレビ局と、それをサポートした広告主が「テレビの社会的責任」を真剣に考えた放送事業をしているという評価は、まちがいなく得られるはずだ。
それでは、「質を追求した番組」というのが具体的にどういう番組なのか。それはかならずしも格調の高い番組であるとはかぎらない。もちろん中には、地球環境や教育や社会問題についての番組もあるかもしれないが、音楽やスポーツ、そして、テレビの原点のひとつである「お笑い」が、それぞれに「数よりも質」を追求した番組をしていくのだ。お笑い番組には、見ている人たちを「こんなにバカバカしいテレビを見たおかげで、きょう一日が救われたよ」という気分にさせる力もある。それはお笑いの質を追求すればするほど現出するものなのだ。
テレビ制作者は、これからテレビの世界で活躍する新しい世代の人たちのためにも、「視聴率」と「質」について新しい価値観と誇りを提示していくべきだと考えている。
|
[藤平芳紀]
|
|
ビデオリサーチ社への視聴率調査サンプル不正操作事件を機に、日本テレビはもとより、業界各団体は、それぞれの場で「視聴の質」についての検討会を立ち上げた。しかし現状、各検討会ともこの問題に対し、明確な結論を出すに至っていない。そうした中にあって、当「考える会」が一応の結論を出し、取締役会に答申書を提出し得たのは、第1に実務家をメンバーにした人選の妙であり、第2は参加者が視聴率悪玉論を俎上に、低俗化や青少年への悪影響など、いわゆる「テレビ文化論」の論議に終始しなかったからである。
申すまでもなくテレビは大量伝達メディアであり、「視聴の質」として論ずべきは広告メディアとしてのテレビの「到達の質」であり、「視聴者の質」である。そのため当会では、主協、業協から関係者を招聘し、意見を聞いた。また2名の委員が調査会社に出向き、関連情報の収集を行ったが、さしたる成果は得られなかった。こうした時間的徒労により、肝心の「質」についての論議が十分尽くせずタイム・アップとなったことは痛恨の極みである。畢竟、日本テレビがこれまで行ってきた「Qレート調査」や「日テレ・フォーラム」についても、「改善」を提案するに止まるなど、審議未了となった事項も少なくない。
また「新しい番組評価基準を考える」のであれば、わが国におけるこれまでの「質の調査」の見直し、デジタル時代におけるメディア環境の変化とそれに伴う視聴態様の変容によってもたらされる視聴率調査のあるべき姿の検討もすべきであったろう。さらにいえば、海外における「質の調査」の研究と日本的利用の可能性などの調査・研究も必要ではなかったか? なかんずく抜本的検討というのであれば、スイス・テレコントロール社製の「Sophie Version」やR.パーシー社のVOXBOXなど、測定機による「質の調査」も視野に入れた論議も必要であったろう。また第三者による監視機関の設立も重要課題であり、こうした情報を海外のリサーチャーから聞く機会も持つべきではなかったろうか?
先の事件の背景に「視聴率偏重」の体質がなかったかといえば、ウソになるだろう。
しかし、それは視聴率データの限界と効用に対する「知識の欠如」が底辺にあったことは無視できまい。視聴率についての正しい使い方を身につけることによって、「視聴率依存」体質は改善されるはずであり、社内にそうした勉強会の発足を強く求める次第である。
|