今も残る防空壕…太田空襲 狙われた“軍事の町”
私が訪ねたのは、群馬県立歴史博物館。
去年、およそ40年ぶりに
見つかったという映像。
そこには…
○櫻井
「群馬地区来襲
昭和20年2月10日
太田空襲の日ですね」
○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「はい」
飛行機雲を伸ばし、
急上昇するのは日本軍の戦闘機。
地上では、
防空頭巾をかぶった大勢の人が
同じ方向に向かって
走って逃げる様子も。
そして…
○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「B29の編隊を
組んでいるところですね」
そこには、並んで飛ぶ
アメリカ軍の爆撃機B29の姿が。
この日、90機が
太田に飛来したと言われています。
○櫻井
「下からのB29の映像って…」
○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「ほとんど見たことがありません」
○櫻井
「そうですよね」
当時、空襲被害の撮影は認められず、
見つかると記録は処分されていたため、
地上から撮影されたこの映像は
大変貴重だといいます。
○櫻井
「実際にこの数を
地上から見たと考えると、
その恐ろしさというのは…」
なぜ、群馬県の太田が
アメリカ軍に狙われたのか―。
○櫻井
「群馬の軍事施設。
中島飛行機、記載ありますね。
大正6年に飛行機研究所として
尾島町(現・太田市)に
設立されました」
これは当時の中島飛行機・太田製作所の様子。
ずらりと並んでいるのは戦闘機「隼」です。
太平洋戦争中、
日本軍の戦闘機のおよそ4割を
製造していた「中島飛行機」。
太田は、その一大拠点だったため、
アメリカ軍に狙われたのです。
終戦までの間に合わせて7回
周辺にも大きな被害を出し、
およそ250人が亡くなったと
言われています。
そして、私の親族も
この2月10日の空襲で
命を落としたのです。
私の祖父の姉の夫。
当時、中島飛行機の職員で
防空壕を作っている時に
空襲に遭い、片方の腕を失いました。
満足な治療をうけられないまま、
翌日に30歳で
帰らぬ人となったといいます。
太田空襲を11歳のころに体験した
富澤公晴さん90歳。
○櫻井
「富澤さんはどうされていた?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「私は、家の中で丸くなって
声をひそめて耳を隠して
防空頭巾で」
自宅に今も残る戦争の跡。
畳と床板をめくると、
出てきたのは…
○櫻井
「これが防空壕なんですか?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「防空壕だよ」
空襲から、すぐに避難するための
防空壕です。
○櫻井
「実際に防空壕として
使ったことはあるんですか?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「あります。みんなで入りましたよ。
『空襲だ』ってサイレンが鳴ったら、
みんな電気を消して隠れてました」
中に入らせてもらうと…
○櫻井
「冷えますね、床の下なので。
2月と考えると寒かったですよね」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「寒かったです。でも怖さで、
寒いなんて言ってられなかった」
当時は、今よりももっと深く、
母や幼い弟たちと5人で
避難したこともあったといいます。
家のすぐ近くに爆弾が落ち、
学生たちが亡くなったことも…。
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「朝方見に行ったら
今でも、あのにおい…
亡くなった人たちも
破片になって
人間の格好してなかった。
90歳を過ぎても
サイレンの音は嫌ですね。
サイレンが聞こえると
『また空襲が』って」
「太田空襲」から79年。
○櫻井
「多くの方が犠牲になった
改めて平和への願い、
戦争への思いは?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「戦争は無差別で弱い者、
庶民がどこでも被害に遭う。
殺されたりします。
地球の中であってはならない」