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今も残る防空壕…太田空襲 狙われた“軍事の町”

2024.02.12

私が訪ねたのは、群馬県立歴史博物館。

去年、およそ40年ぶりに
見つかったという映像。
そこには…

○櫻井
「群馬地区来襲 
 昭和20年2月10日
 太田空襲の日ですね」
○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「はい」

飛行機雲を伸ばし、
急上昇するのは日本軍の戦闘機。

地上では、
防空頭巾をかぶった大勢の人が
同じ方向に向かって
走って逃げる様子も。
そして…

○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「B29の編隊を
 組んでいるところですね」

そこには、並んで飛ぶ
アメリカ軍の爆撃機B29の姿が。
この日、90機が
太田に飛来したと言われています。

○櫻井
「下からのB29の映像って…」
○群馬県立歴史博物館
佐藤 有 学芸員
「ほとんど見たことがありません」
○櫻井
「そうですよね」

当時、空襲被害の撮影は認められず、
見つかると記録は処分されていたため、
地上から撮影されたこの映像は
大変貴重だといいます。

○櫻井
「実際にこの数を
 地上から見たと考えると、
 その恐ろしさというのは…」

なぜ、群馬県の太田が
アメリカ軍に狙われたのか―。

○櫻井
「群馬の軍事施設。
 中島飛行機、記載ありますね。
 大正6年に飛行機研究所として
 尾島町(現・太田市)に
 設立されました」

これは当時の中島飛行機・太田製作所の様子。
ずらりと並んでいるのは戦闘機「隼」です。

太平洋戦争中、
日本軍の戦闘機のおよそ4割を
製造していた「中島飛行機」。

太田は、その一大拠点だったため、
アメリカ軍に狙われたのです。

終戦までの間に合わせて7回
周辺にも大きな被害を出し、
およそ250人が亡くなったと
        言われています。

 

そして、私の親族も
この2月10日の空襲で
命を落としたのです。

私の祖父の姉の夫。
当時、中島飛行機の職員で
防空壕を作っている時に
空襲に遭い、片方の腕を失いました。

満足な治療をうけられないまま、
翌日に30歳で
帰らぬ人となったといいます。

太田空襲を11歳のころに体験した
富澤公晴さん90歳。

○櫻井
「富澤さんはどうされていた?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「私は、家の中で丸くなって
 声をひそめて耳を隠して
 防空頭巾で」

自宅に今も残る戦争の跡。

畳と床板をめくると、
出てきたのは…



○櫻井
「これが防空壕なんですか?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「防空壕だよ」

空襲から、すぐに避難するための
防空壕です。

○櫻井
「実際に防空壕として
 使ったことはあるんですか?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「あります。みんなで入りましたよ。
『空襲だ』ってサイレンが鳴ったら、
 みんな電気を消して隠れてました」

中に入らせてもらうと…

○櫻井
「冷えますね、床の下なので。
 2月と考えると寒かったですよね」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「寒かったです。でも怖さで、
 寒いなんて言ってられなかった」

当時は、今よりももっと深く、
母や幼い弟たちと5人で
避難したこともあったといいます。

家のすぐ近くに爆弾が落ち、
学生たちが亡くなったことも…。

○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「朝方見に行ったら
 今でも、あのにおい…
 亡くなった人たちも
 破片になって
 人間の格好してなかった。
 90歳を過ぎても
 サイレンの音は嫌ですね。
 サイレンが聞こえると
 『また空襲が』って」

「太田空襲」から79年。

○櫻井
「多くの方が犠牲になった
 改めて平和への願い、
 戦争への思いは?」
○太田空襲に遭った
富澤 公晴さん(90)
「戦争は無差別で弱い者、
 庶民がどこでも被害に遭う。
 殺されたりします。
 地球の中であってはならない」

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