展覧会紹介
サンクトペテルブルクとエルミタージュ美術館
木谷 節子 (アートライター)
魅惑の都市、サンクトペテルブルク
モスクワに次ぐロシア第二の都市サンクトペテルブルク。現在フィンランド湾にそそぐ大河・ネヴァ川に壮麗な街並みを映すこの街は、18世紀初頭、森林や沼地を開拓してたった10年間で建設された。絶大な権力と意志をもってその建設を推し進めたのは、ロシアの西欧化と近代化に尽力したピョートル1世(大帝、1672-1725)。街は皇帝の守護聖人「聖ペテロ」にちなんでサンクトペテルブルクと名付けられ、ロシア革命後、首都機能がモスクワに移る1918年までの約200年間、帝政ロシアの都として繁栄した。もしあなたがモスクワに行ったことがある人なら、サンクトペテルブルクが、いかに「非ロシア的」であるかがわかるだろう。ロシア正教の伝統が息づく質実剛健な政治都市モスクワに比べると、「ヨーロッパへの窓」たる意図をもってつくられたこの街はあくまで優雅。メインストリートであるネフスキー大通りやその周辺には、元貴族の豪邸や巨大な寺院、ヨーロッパ風の瀟洒な建築が立ち並び、ネヴァ川左岸には、ロマノフ王朝の歴代皇帝が住んだエルミタージュ美術館や、宮殿広場に両翼を広げる半円形の旧参謀本部が威容を誇る。夜には美しくライトアップされた街がひときわ幻想的なサンクトペテルブルクは、帝政ロシアの歴史と伝統を肌で感じることができる、まさに「美の都」なのである。
エカテリーナ2世の美術政策
サンクトペテルブルクの歴史は、その創設者たるピョートル1世なくして語ることはできないが、もう1人この街を文化芸術の都へと導いた人物をあげるとすれば、エカテリーナ2世(1729-1796)に他ならない。並外れた政治手腕でロシアの国力を増大させたこの女性は、16歳の時に、北ドイツ(現在のポーランド領)のシュテッティンからロシアの皇太子ピョートルのもとに嫁いできた。その後彼女の夫は皇帝となるが、宮廷では愚鈍な皇帝を廃して聡明な皇后を女帝に推す動きが強くなり、1762年、エカテリーナはクーデターによって夫から政権を奪取する。以後34年間、啓蒙専制君主としてロシアに君臨したエカテリーナ2世は、教育や文芸の振興、病院の設立などに力を注ぎ、対外的にはオスマン帝国との戦争や3度にわたるポーランド分割などで、帝国の領土拡大を押し進めた。
そんな彼女が行った文化戦略のひとつが、積極的な美術品の収集だ。ロシアの財力と文化水準をヨーロッパ諸国に誇示するために、エカテリーナ2世は海外から多数の美術品を購入し、宮殿内の美術ギャラリーに展示した。実はこの「美術ギャラリー」こそ、世界屈指の美の殿堂エルミタージュ美術館の礎となるのである。
広大なる隠れ家、エルミタージュ美術館
初めてエルミタージュ美術館を訪れた人は、緑と白の外壁が延々と続くそのきらびやかな威容に、言葉を失うことだろう。展示室の数は400以上、それらをすべてつなげると20㎞以上に及ぶというこの美術館は、渡り廊下で結ばれた5つの建物(冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場)からなっている。最大の建物は歴代皇帝の冬の住まいであった「冬宮」だが、エカテリーナ2世は、その隣に自らの時間を楽しむための「エルミタージュ(フランス語で「隠れ家」の意)」(現在の小エルミタージュ)を建て、ベルリンの実業家から購入した絵画225点を陳列した。記念すべきエルミタージュ美術館の開館年は、この225点が搬入された1764年となる。もちろん女帝と歴代皇帝による美術品収集はその後も精力的に続けられ、収納場所がなくなると新たな建物が建築された。現在館のコレクションは、レオナルド・ダ・ヴィンチ《リッタの聖母》をはじめ、《放蕩息子の帰還》ほかレンブラントの名作群、帝政末期の実業家シチューキンが画家に直接制作を依頼したマティスの《ダンス》など、絵画作品だけでも16000点以上。これに彫刻、美術工芸品、考古学資料などを合わせたコレクションの総数は約300万点にのぼるのだが、慢性的な展示室の不足から公開されているのは全体の1/8ほどだそうである。それでも、すべてを見尽くすのに朝から晩まで何日費やせばいいのか見当もつかない。なぜならエルミタージュ美術館に一歩足を踏み入れれば、ひとつひとつの美術品にとどまらず、かつて宮殿だった展示室の華麗なる宮廷装飾にも魅了されることは間違いないからだ。
Photo by Valentin Baranovsky