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日本の技術力を底上げ ものづくりの天才・国友一貫斎の功績とは?【2024/12/15 所さんの目がテン!】

2024.12.30 公開

「東洋のエジソン」や「江戸のダ・ビンチ」と呼ばれる偉人、国友一貫斎。鉄砲鍛冶職人としての優れた腕を誇り、空気の性質を理解した科学者でもあり、日本で初めて反射望遠鏡を作って天体観測をした天文学者でもありました。12月15日(日)日本テレビ「所さんの目がテン!」では、新企画「過去から偉人がやってきた」として、日本の技術力を底上げしたものづくりの天才・一貫斎の謎に迫りました。

空気の性質を理解し気砲を作る

新企画「過去から偉人がやってきた」は、古の時代に偉業を成し遂げた先人たちが、その功績を伝えるべく、現代にタイムスリップ。今回は、きょうきょうこと湯上響花と、江戸時代からタイムスリップしてきた一貫斎役・吉田共朗が、一貫斎の功績を振り返っていきました。

一貫斎は、近江の国・国友村で1778年に生まれ育ちました。国友村は現在滋賀県長浜市国友町となっています。

当時火縄銃の一大生産地だった国友村は、最盛期には70軒の鉄砲鍛冶と500人以上の職人がいたそうです。鉄砲鍛冶の家に生まれた一貫斎は、類まれな腕前で名手として名を馳せていました。

長浜城でお会いしたのは、長浜城歴史博物館 学芸員 岡本千秋さん。大学時代に一貫斎に興味を抱き魅力にハマり東京から長浜に移住。現在、一貫斎の資料保存や功績の普及に勤しんでいるそうです。

岡本さんは「一貫斎さんは本当にいろいろな物を作っていて、それが今の日本の技術力の底上げにもなっているのでは」と話します。その中でも大きな功績は、一貫斎が作った空気銃「気砲」にあります。

気砲の実物が愛知県名古屋市 トヨタ産業技術記念館に残されているということで、この記念館へ。一貫斎の気砲を調査した国立科学博物館 名誉研究員 鈴木一義さんに話を聞いていきます。

約200年前に作られた気砲。火薬を使わず、蓄気筒の中にためた空気の力で銃弾を押し出し発砲する仕組みで、ポンプを立て、蓄気筒を上から押し、空気を入れていたそうです。

江戸でオランダ製の空気銃を目にした一貫斎は火薬を使わない新しい武器に興味を持ち、空気で発砲とはどういうことか、仕組みを理解して自分で作ろうとしました。

そのとき気づいたのが、中に空気を入れると重くなること。今回は、その空気の重さを体感するため空のペットボトルで実験。空気を入れるポンプを取り付け、同じものをもうひとつ用意して、棒に吊るします。

2つのペットボトルの中には同じ量の空気が入っていて、釣り合った状態。そして、片方にだけポンプでさらに空気を入れていきます。50回ポンプを押したところで、空気を追加したほうのペットボトルが確かに重くなりました。

一貫斎は当時、ポンプを100回押すごとに増えた分の重量を記録。そして、空気の圧力の存在にも気付いたのです。最初の100回では、6匁=約23gの空気が入りましたが、回を増すごとに少なくなっています。

つまり、新たに入る空気の量が減っていったのです。今回のペットボトルの実験でも、ポンプを押すこと40回を越えたあたりで、空気を押し込めづらくなりました。

容器に空気を多く閉じ込めると、体積は変わらず重さ・密度が大きくなり、押し返す力が強くなったのです。これこそが空気の圧力。空気の重さや圧力の概念が浸透していなかった時代、一貫斎は空気の性質を理解し、威力の強い空気銃を作ることに成功しました。

鈴木さんは「蓄気筒の中にものすごい高圧で空気が入る。その空気が漏れてしまったら空気銃の役割をなさないので、空気が漏れないよう一貫斎さんがすごい工夫をしている」と紹介。

その秘密はポンプの中にありました。ゴムなどがなかった時代、程よい弾力のある動物の皮を使い、ポンプを押すときの空気漏れを防いでいたのです。

蓄気筒の入口奥にも皮を使った弁があり、高い密閉度を保っていたそう。さらに、溝同士がピタッと閉まるネジも作り、精巧な作りで密閉していたのです。

そんな気砲の威力を示すものとして、打った弾が板を貫通している様子も残されています。それはオランダ製の空気銃の威力を遥かに上回っていたといいます。

なお一貫斎は、大名の前で試し打ちをしたときの様子を、絵を添えて記録していました。岡本さんはその内容について「威力と命中率を大名が褒めた。そこで一貫斎さんは、それはまぐれあたりにゴザリマスとわざわざ自分で書いてるんです」と教えてくれました。

万年筆が海外から入ってくる前の発明も

続いては、一貫斎の生家へ。迎えてくれたのは一貫斎の子孫のひとり、小林正信さん。200年以上前の家を今でも守っているそうです。

小林さんが見せてくれたのは「懐中筆」。文政11年、今から196年前に作られたものです。上の部分が開くようになっていて、墨を入れておけば長い時間書き続けられる筆。現代の万年筆と同じ仕組みですが、万年筆が海外から入ってくる前に発明していたといいます。墨が漏れないようキャップがネジになっていて、技術力の高い一貫斎らしい作りが窺えます。

懐中筆の説明書には、墨の出が悪いときは筒を温めると良いなどと書いてあり、ここでも、空気は温めると膨張するという性質を理解していました。

さらにランプのような照明具「玉燈」も開発。当時は皿に油と、綿や麻の紐などを入れ、火を付ける灯明皿が一般的な照明具でしたが、これでは夜に字を書くには暗く、困った一貫斎が明るさを求めて発明したといいます。

玉燈のレプリカを鈴木先生が持っているとのことで、お借りして、明るさを灯明皿と比較してみることに。燈心の下まで水を入れ、さらに油を注ぎます。すぐに分離して、油が上に浮かび、燈心が吸い上げることで燃料となります。

灯明皿と玉燈では照らす範囲に違いが出ました。玉燈は、ガラスが光を拡散することで、より広範囲を明るく照らします。

鈴木先生いわく、当時ガラスの照明具は珍しくオシャレ度も高かったとか。また、水と油がくっきり分かれているため、油を最後まで使い切れて経済的でもあったようです。

さらに、一貫斎は現存する日本で最古と言われている飛行機の設計図も作っていました。残念ながら実現はしませんでしたが、鳥をモデルにかなり細かく描かれています。

他に井戸を掘る掘削機の設計図も残っており、一貫斎の頭の中には山程のアイデアが溢れていたようです。

一貫斎が作った反射望遠鏡を使って観測

そして、長浜市指定文化財となっているのが、約200年前に一貫斎が作った反射望遠鏡。

当時一貫斎は、大名屋敷でオランダ製の望遠鏡を目にしました。一貫斎が見たのは、反射式望遠鏡(グレゴリー式)で、入ってきた光を集めて中の鏡に反射させることで対象物の輪郭をハッキリと見ることができます。そのために最も大事なのが、光を反射させる主鏡です。

平らな円盤に見えますが、断面を見るとわずかに放物線になっています。光を確実に副鏡に反射させるためきれいな放物線でなくてはならず、少しの曇りや歪みでも正確に機能しないため、作るには相当な技術が必要です。しかし一貫斎は、オランダ製を上回るものを作り上げたのです。

元京都大学教員 天文学者の冨田良雄さんは、その出来の良さに驚がくしたといいます。「筒の蓋を開けて中を見たら奥にある鏡が光っている。200年近く経った反射望遠鏡がそのままのぞける。こんな金属あるんかいな」と、主鏡を分析してみたところ重量比で「銅67%、錫33%だった」と冨田先生。

なぜその配合だったのか、冨田先生たちは銅と錫の割合を少しずつ変えた金属を作り、どのように変化するか10年間かけて観察。すると「一番劣化する割合が少なかったのが、一貫斎の主鏡の銅67%:錫33%という比率」と、一貫斎がたどり着いた配合は、科学的にも最適と証明されました。

2019年には、国立天文台が主鏡の歪みがどの程度あるか、面精度を調査。現在の市販品と比較した結果、市販品1の数値が、0.88λ(ラムダ)、市販品2が0.30λ。これは、歪みが大きいほど高い数値を示します。一貫斎の主鏡は、0.67λ。2つの市販品の間。つまり、現在の基準でも合格ラインをクリアする歪みの少なさだったのです。

そして研究者たちが驚いたのは、くもりのないピカピカの表面。精密機械のない時代、鏡ではなく、日本刀の研磨に使われる砥石を使っていたそうです。

これは現在の包丁研ぎにも使われる砥石。ということで、一貫斎のやり方で金属をピカピカに磨けるのか挑戦。磨くのは表面がザラザラの鉄の塊。これを、研磨初体験のスタッフが磨いてみます。

まずは荒砥。続いて荒砥よりキメが細かい中砥。そして、もっとキメが細かい仕上げ砥。一貫斎は、水ではなく油と砥石の粉末・砥の粉を混ぜて研磨していたそうです。油は水より粘度があるため、砥の粉がよく絡み、しっかりと研磨できるそう。

ここまで磨いて滑らかにはなりましたが、曇っていて鏡とは程遠い状態。しかし最後の工程こそ一貫斎が編み出した、刀剣磨きにはないツヤ出し法。それは仕上げ砥の油をすべて拭き取り、水も使わず研磨する「空研ぎ」です。

一度削られた金属の粒子が、強い力で素早く研ぐことで、再び金属に付着。このとき、粒子が表面の凹凸を埋めてツルツルに仕上げると考えられるそうです。2分ほど研ぐと一貫斎のようにピカピカとはいきませんが、鏡らしくなりました。

さらに今回は、約200年前に一貫斎が作った実物の反射望遠鏡で、長浜城天守閣から天体観測に挑戦。岡本さんと冨田先生の協力のもと、一貫斎も見た金星を狙います。

照準を合わせてもらい、きょうきょうが覗いてみると金星が見えました。観察を行った11月初旬の金星は上が欠けて見えますが、その形をほぼ捉えることができました。

当時の一貫斎の記録にも、欠けた金星が描かれていました。

見えた天体を丁寧に書き写し、月のクレーターや土星の輪っか、さらにその衛星・タイタンと思われるものも一貫斎は記録していました。天体望遠鏡は細かいところまで見えた、高性能の望遠鏡だったのです。

一貫斎は、天体観測の綿密な記録を残していることから、天文学への貢献度も高く評価されています。海外から入ってきたものをより優れたものに作り直すという、まさに日本の技術力の先人と言える人でした。

一貫斎と同じ江戸時代中期から後期の偉人として挙げられるのは、伊能忠敬や平賀源内、葛飾北斎といった人物。日本の文化発展に大きく貢献した方たちが、まさに同じ頃の時代を生きていたのです。

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