こんにちわ!
なみです。
なみ(さんでも、ちゃんでも、呼び捨てでも)と覚えてくれたら嬉しいです。
お休みをいただきありがとうございました。
旅立つ人のためにゆっくり時間が取れて
とても良いお別れができました。
今日は少し真面目にその人のことを語らせてください。
レシピ見に来た方はこちらいかがでしょう?
作り方リンクしてます→アボカドチーズ肉巻き
個人的な話ですしとっても長くなりそうですが
もし、お時間がある方はどうぞお付き合いください。
今回、さよならしたのは私の義理の母。
昌子さんといいます。
私たち夫婦が結婚したのは2006年
初めてお会いした時から
笑顔が穏やかで優しいお母さんでした。
私たちの結婚式は手作りの式。
二人で探した手作りできる場所で
仲の良い方をおもてなししたくて、
会場の飾りやお花、ドレス、ケーキ、席札、席次表
すべて手作りで
私もだんなも前日まで用意をしていて、
寝不足の主役でした。
実の母には「全部やりすぎなのよ」と
怒られ喧嘩をしましたが
昌子さんは
「奈海ちゃんはすごい、とっても良い結婚式になった」
と手放しで褒めてくださいました。
私がレシピの女王になれたきっかけ
それは、まだ全くの趣味で始めた個人ブログで
簡単にレシピの紹介をしていたこと。
昌子さんは私のお料理をすごく気に入ってくれて
「どうやって作るの?」と細かく聞いてくれたこと。
考えたらすっごい年下の嫁の拙い料理。
それを手放しで褒めてくれてブログを楽しみにしてくださって
ダンナ実家に帰ればブログのプリントアウトを
大事に取っておいてくださって
そんな、義母がいたから、
500レシピ程のストックができました。
レシピの女王になって
初めて作らせていただいたレシピ本
「ぴーかんレシピ」の126レシピが
あの短期間でできた背景でした。
レシピの女王になったことも
レシピ本を出したことも
病院のベッドでの報告でしたが
きっと一番喜んでくれたのはお母さんだったと思います。
母が倒れたのは2年5ヶ月前。
その頃の個人ブログはそれを期に休止してます。
母は脳に動脈瘤(血管のこぶ)ができてしまい
そこそこの大きさで、
破裂する可能性が高くなっていて
破裂すれば体に後遺症が出たり
悪い場合は死もあり得ますとのこと。
ただ、一生破裂しない場合も・・・
手術しない選択もできました。
手術は頭を開くなど大がかりなものではなく
コイルという細い管を
血管に入れてそのコブを縛る簡単なもの。
担当の先生は名医と言われており
その話をだんなとお父さん、
お母さんと一緒に病院で聞きました。
誰も爆弾を頭にかかえて生きていくのは怖いこと。
家族みんなで手術を決めました。
手術は2度にわたって行われることに。
先生曰く
「少し、嫌な形の瘤なんだよね」
その言葉は引っかかりはしたものの
1度目の手術は成功。
2日程度の入院で退院。
安静にして次の手術に備えました。
その間に、息子の保育園の積み木で遊ぶイベントがあり
我が家に泊まりに来てもらったり。
2回目の手術も何も心配なく終わるのだろうと思っていました。
手術の日、病院からの電話
「手術中、脳から出血があり危ない状態です」
仕事だったダンナに電話をして埼玉の病院へ駆けつけました。
着いた時にはお父さんもいらっしゃって
「助けるための手術をするかどうかを決めなければいけない」と。
「手術をしても助かるかはわからないし助かっても
笑えるかどうかもわかりません。
よくても車椅子の生活は覚悟してほしい」
そんな状況。
「うそでしょ?」
しか思えなかった。
でも、生きてほしい・・・
その気持ちだけで手術をしてほしいと強く希望した私でした。
元気な頃のお母さんの口癖は
「寝たきりで話もできずに管に繋がれて生きるのだけは嫌」でした。
お父さんや息子であるダンナはすごく悩んでいました。
そのため手術を決断できずに、最後には私の強い希望に
押された形で手術を決めました。
それから、よくなることもなく
ずっと病院で寝たきりで、笑うこともできなかった母。
ただ、母が倒れてすぐにお腹に宿っていることが
わかった娘の蒼葉の誕生は
母が一番喜んでいただろう事。
私が嫁いだ時に「娘が欲しかったの」と
本当の娘のように可愛がってくれたお母さん。
だから、一番望んでいなかった病院での寝たきりの生活も
今まで我慢してくれたのでしょう。
母が亡くなってから見つかった私たちに向けたお手紙には
「お母さんの1番の元気目標は息子の結婚と
孫の誕生です。叶えてくれてありがとう。
次の元気目標は晴飛のランドセル姿を見ることです」と
何気なく書いてありました。
今年4月には小学校に入学する長男の晴飛。
病院で、何度か血圧が下がったり、心臓が弱くなったり
高熱が出たりと危ない場面がありました。
その度、乗り越えていたから今回も・・・・
と思っていましたが
きっと、孫も無事に小学生になる今
それがわかって、手を離したのかもしれません。
73歳でしたが、いつも少女のような人でした。
あの3.11関東大震災の日、
たまたま東京の私たちの家にいたお母さん。
孫と一緒にいれてよかったという反面
遠く離れた埼玉のお父さんのことを心配して
なんども帰ろうともしましたが電車は不通。
お父さんに早く会いたい気持ちがあったからでしょう
「どうして迎えに来てくれないの」と
文句を言っていたのを思い出しました。
とてもしっかりしている人でしたので
それが意外で、
お父さんに対する気持ちがなんて純粋で素直なんだろう
年を取ってもそういう風に思えたら本当に素敵だなと思ったのを
覚えています。
先日、2月19日に
私たちの手の届かない場所に行ってしまったお母さん。
やっと自宅に帰ることができました。
眠っている顔は
今まで病院で寝ている時よりも綺麗で穏やかで
とても安らかに見えました。
呼吸器や、いろいろな管に繋がれていないお母さんは
やっと、安心して眠れるといっているようでした。
お葬式までの3日間、
その姿をしっかり見ることができて安心したのは
私だけではなかったと思います。
元気な頃にいろいろと決めていたお母さんは
「よろしくノート」を作っていました。
どんな葬儀にするか
どんな写真を飾るか
誰を呼ぶか
棺には何を入れるか・・・
それだけのこときちんとできる人は
なかなかいないのではないかと思います。
すべて簡潔に分かりやすく記載してありました。
お父さんは悲しくて寂しかったけれど
そのノートとお母さんの手紙、
どれだけ救われたかわからないと思います。
残された側に対しての気遣いも
本当にお母さんらしいなと思いました。
本当につらつらと思いつくままに綴ってしまいましたが・・・
私がお母さんに出会えたことは大きな財産です。
遠くに行ってしまったけれど
いつでも、優しい笑顔で微笑みながら
励ましてくれてるお母さんを感じながら
これらはがんばるつもりです。
お母さんが手放しで褒めてくれたから
お料理を続けられて
今ここにいることができました。
私が頑張れば褒めてくれる人がいる
心強さを教えてくださってありがとうございます。
これからもどうぞ、上から見守っていてください。
本日は私事ですが長いおつきあいありがとうございました!
また、いつもの私に戻りますので
今後ともよろしくお願い致します。
そして皆さんも大切な人と楽しい日々を過ごしてくださいね♪
******コメントありがとうございます******
皆さんの暖かいコメントが毎日の楽しみです!
ほんとうにありがとうございます!
今後も皆さんとのおしゃべりを楽しみにしていますのでどぞお気軽に〜。
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よろしくお願いいたします♪