「特攻隊との5日間」沖縄戦76年…女学生の記憶
沖縄県北部の古宇利島。
水深40メートルを超える海底。
地元ダイバーの杉浦武さんが
撮影したのは、アメリカ軍の駆逐艦『エモンズ』です。
太平洋戦争末期に繰り返し行われた“特攻”。
エモンズは5機に突入され、その後、沈みました。
76年が経った今年、
船体の一部は大きく崩れ始めていました。
その、すぐそばに残っていたのは…
“特攻機のエンジン”です。
さらに、特攻隊員が握っていたとみられる“操縦かん”も。
この海で命を落としたのは、特攻部隊『誠隊』の隊員たち。
全員が、20代の若者でした。
特攻が死を意味すると知りながら、
どんな思いで飛び立ったのか。
出撃前の時間を共に過ごした女学生がいます。
群馬県の工場で飛行機の部品を作っていた
三上登喜子さん、当時15歳。現在、91歳です。
誠隊を直接知る方が少なくなる中、
電話でならと当時のことを語ってくださいました。
◯櫻井
「はじめまして。
本日はお時間をいただきありがとうございます」
◯出撃前に誠隊と交流・三上登喜子さん(91)
「こちらこそ、お世話になります」
◯櫻井
「誠飛行隊とのつながりは
どういったところから始まった?」
◯出撃前に誠隊と交流/三上登喜子さん(91)
「私たち飛行機なんて見たこともなかったものですから、
お友達と(近くの)飛行場に行ってみたんです
そのときに初めて森さんっていう方が
『飛行機の説明をしてあげようか』って突然、
後ろから声をかけてくださったのが
そもそもの始まりなんです。」
優しく声をかけてくれたのは、
25歳の森知澄(もり・ともすみ)少尉でした。
◯出撃前に誠隊と交流・三上登喜子さん(91)
「私の苗字(旧姓)が“静”っていうんですけど
あるとき森さんが『しずちゃん』って
私のことを呼んだんです。
妹さんの写真を見せてくださって、
妹さんが“静代さん”とおっしゃるんです。
私たちをみてみんな妹のことを思ったと思うんです、
家族のこと。」
◯櫻井
「妹さんの姿を重ねていたのかもしれないという…」
◯出撃前に誠隊と交流・三上登喜子さん(91)
「そう、思います。
特攻隊の人ってみんな朗らかで、肩をぶつけ合って
朗らかに笑って。そういうのをみていると
私たちがしんみりしてはいけないんだな
って思いましたね。」
笑顔を見せる一方で、話が途切れると、
こんな歌を歌う隊員もいたと言います。
◯出撃前に誠隊と交流・三上登喜子さん(91)
「『咲いた花なら~散るのは覚悟~』っていうんですよ
『咲いた花なら散るのは覚悟』って、
人間に例えたら悲しいことですよね」
出会からわずか2日後、森さんは別の飛行場へ。
そのとき三上さんがかけた言葉は
『御成功をお祈りいたします』。
◯出撃前に誠隊と交流・三上登喜子さん(91)
「『御成功をお祈りします』ということは
体当たりが成功するってことでしょ?
なんて、なんて挨拶すればよかったんでしょうね。
教えてください、今でも」
◯櫻井
「言葉でないですね」
◯出撃前に誠隊と交流/三上登喜子さん(91)
「本当にあのときはさよならじゃすみませんもん、
気持ちが」
自分に見立てたマスコットを作り、
手紙と共に別の隊員に託した三上さん。
それからおよそ2週間後の1945年4月6日。
森さんら26人は沖縄で特攻し、亡くなりました。
1か月以上が経った5月19日。
三上さんの元には、
“森さんからのハガキ”が届きました。
◯森少尉から届いたハガキ
『登喜子さんからの懐かしきお便りに
「マスコット」を受取り嬉しくて
登喜子さんもお元気とのこと
僕も只今福岡の基地にて翼を休ませて居ります。
内地の桜も見ずして去るのは残念です。
しかし、これも運命です。
立派な死に場所を得ました。
僕は本当に幸福です。
登喜子さん僕は元気なときは
お便りいたしますからね』
◯櫻井
「これが1ヶ月後に届いたんですか?」
◯出撃前に誠隊と交流/三上登喜子さん(91)
「誰かに頼んだんでしょうね、投函を…
本当に森さんが私たちのことを声かけてくださったから
(誠隊の)みなさんにこういうふうに会えて
特攻隊というものを、身にしみて…」
戦争に翻弄された、若者たち。
◯櫻井
「若い世代に三上さんから伝えたいことは?」
◯出撃前に誠隊と交流/三上登喜子さん(91)
「この平和が続くように犠牲になったみなさんのことを
忘れないでいてほしいと思うんです。」
◯櫻井
「当然ですけど、戦争は絶対に…」
◯出撃前に誠隊と交流/三上登喜子さん(91)
「もちろんです、もちろんですよ
だって戦争していいことなんてありませんもんね」