日本を愛し、日本人に愛されたゴッホ…話題のアート小説「たゆたえども沈まず」と共に辿る、ゴッホの人生
ヒット作連発!アート小説という分野を作り上げた作家・原田マハがゴッホの人生に迫ります
![]() | 【特別授業】 |
◆ゴッホの絵が売れなかった理由!絵のテーマが ???? だったから?
オランダの牧師の子として生まれたゴッホは、感情の起伏が激しく人付き合いが大の苦手でした。
中学校は自主退学、就職しても長続きせず、画家になろうと決意したのは27歳の時でした。
ゴッホのオランダ時代の作品「じゃがいもを食べる人たち」は、私たちがよく知るゴッホの作品とはタッチが違います。
ゴッホは画商だった弟のテオに絵を売ってもらおうとしましたが、全く売れません。
ゴッホの絵はなぜ売れなかったのか?それは
当時のパリの画壇では絵のテーマにランクがありました。最上位が宗教画、次に歴史画や神話画が続きます。
一方ゴッホが描く 風俗画 というテーマは人気がなく売れなかったのです。また、ゴッホの絵のタッチは生々しくて好まれなかったそうです。
◆パリで開花したゴッホの色彩!大きく影響を与えたのは 日本美術 だった!
ゴッホは33歳の時、パリで働いていた弟テオのアパートに転がり込み共に生活をするようになると、絵の色使いに変化が現れました。
ゴッホは浮世絵のカラフルさに衝撃を受けたのです。古いヨーロッパの絵画は重厚な色調で光と陰を表現するのが一般的でしたが、浮世絵は版画なので鮮やかな原色が多くカラフルに見えます。
ゴッホは、弟テオと600点を超える浮世絵を収集しました。
◆ゴッホも精巧に模写!当時西洋画にはほとんど描かれていなかったものとは?
浮世絵には、当時西洋画でほとんど描かれていなかった 雨 が描かれていました。
西洋のアーティストはどうせ絵を描くなら理想的に晴れた日を描こう!という考えでした。
でも日本の浮世絵は自然の中にある風景や身の回りの情景を描いており、それがゴッホには斬新に映り、大きな影響を与えたのです。
そしてゴッホは、歌川広重が描いた雨の浮世絵を精巧に模写しています。
さらに、日本美術が特集されたパリの美術雑誌の表紙も模写しています。日本の美術を研究し、ゴッホの絵は次第に鮮やかな色彩をまとっていきます。
しかし…絵は相変わらず売れません。
◆浮世絵に影響を受け、模写していたゴッホ!カンバスの余白に描いていた意外なもの!
ゴッホは歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」を模写しました。
西洋のカンバスに描くと、両側に余白ができます。ゴッホはこの余白になんと漢字を描いたのです。
この漢字はゴッホが見よう見まねで模写したものです。西洋人は横に文字を見るので、縦の文字を見ることはほとんどなかったはずです。ゴッホの目には恐らく、漢字は絵の一部のように映っていたのではないでしょうか。
◆日本を追い求め南フランス・アルルへー。日本を ???? な国と勘違い?
ゴッホは浮世絵を見て、日本は
ほとんどの浮世絵には影が描かれておらず、非常に日差しが強いから影が見えないと、常夏の国だと大きな勘違いをしました。
アルルに移り住んだゴッホが友人に宛てた手紙には、このように書かれていました。
「この土地の空気は澄んでいて、明快な色の印象は日本を思わせるものがある。
我々が浮世絵で見るような豊かな青を風景に添える。毎日太陽は黄色く輝いている」
◆日本は 共同生活 をしながら作品を作っていると大きな勘違い!
その勘違いから生まれた画家ゴーギャンとの共同生活の結末は…
浮世絵は手分けして作っていますが、その版画を見て、日本ではアーティストたちが共同生活をして作品の質を高めあっているんじゃないかと勘違いし、自分も仲間と共同生活しようと考えたのです。
共同生活を始めた相手は、のちに「タヒチの女」で有名になった先輩画家のゴーギャン。
ゴッホはゴーギャンを迎えるにあたり、ゴーギャンの部屋用に名画「ひまわり」を描きます。
しかし二人の共同生活は度重なる意見のぶつかり合いでこじれてしまい、激しい言い合いの後、ゴーギャンが家を出て行くと、混乱したゴッホは衝動的に自分の耳を切り落としたのです。
結局、共同生活はわずか2か月で破綻。その時描いたのが包帯をした自画像です。
なぜこのような自画像を残したのか?原田先生は、小説の中でこう書いています。
「わかっていた、フィンセントの精神がガラスのように脆いこと、人一倍傷つきやすく繊細なこと、いつも何かを求めて飢えていること…血を流しているのは彼の耳たぶなんかじゃない彼の心だ! その心が乗り移った彼の絵こそが血を流しているのだ。」(小説「たゆたえども沈まず」より)
原田先生はこの絵に、自分で自分を傷つけてはしまったけれども、これ以上に絵を描いていくという、迷いのない決意のようなものを感じるとも言っています。
◆自ら死を選んだゴッホ…最後の時、一体何を想っていたのか
「耳切り事件」後、自ら療養院に入院したゴッホは、精神を病んでも絵を描くことをやめませんでした。
ここであの美しい名画『星月夜』が生まれます。
『星月夜』は、原田先生の小説「たゆたえども沈まず」の表紙も飾る、ゴッホ晩年の傑作の一つ。
原田先生がゴッホ作品の中で、最も好きな絵の1枚でもあります。
どん底にの時に描いた作品にも関わらず、この絵には希望のようなものが感じられます。
しかしこの絵も売れず、ゴッホは人生最後の8週間を過ごすパリ近郊の村に移り住みます。
1890年7月27日…ゴッホは拳銃で自らの腹を撃ち、37歳の生涯を閉じました。
なぜゴッホは自ら死を選んだのか?原田先生は、小説の中でこう書いています。
「どうしたんだ?なぜひと思いにやらない?さぁ、やれ・・・勇気があるなら・・・自由にしてやるんだ・・・テオ(弟)を」(小説「たゆたえども沈まず」より)
弟テオには妻と子供がいました。いつまでも彼に経済的負担をかけるわけにはいかない、そう思い自ら死を選んだのかもしれません。
そして弟テオも、まるで後を追うように、ゴッホが亡くなった半年後に病気で亡くなってしまいました。
今ゴッホのお墓の隣にテオのお墓もあり、2人並んで仲良く埋葬されています。
ゴッホは晩年、子供が生まれた弟テオに1枚の絵をプレゼントしました。
『花咲くアーモンドの枝』
真っ青な空に開く小さな花が、日本人が愛する桜のようにみえるのは偶然だったのでしょうか?
◆ゴッホの死後、日本人を熱狂させたゴッホ
結局、ゴッホの絵は、生前数枚しか売れませんでしたが、死後、彼の絵に注目したのは日本人でした。
明治時代に、日本で創刊された最先端の文学や西洋美術も紹介する同人誌「白樺」がゴッホの作品を特集し、日本の若者を熱狂させました。
日本美術から大きな影響を受け、日本を深く愛したゴッホは、今もなお日本人から愛され、彼の作品は私たちの心の中で生き続けているのです。