100の診療所より1本の用水路を!医師「中村哲」の生涯
アフガニスタンに人生を捧げ、なぜ命を奪われたのか?
医療より水を!独学で用水路を建設…砂漠化した土地を実り多き緑の大地に!中村哲、奇跡の授業
![]() | 【特別授業】 |
◆中村医師が現地で活動するきっかけの意外な理由!それは・・・現地の珍しい蝶が見たかった!
もちろん医療活動も目的でしたが、珍しい蝶が見たかったという理由も!
医者になっていなければ、「昆虫博士」になりたいと思っていたという話も。
◆中村医師の運命を変えた・・・2000年の夏。「医療より水を!」その真意とは?
診療所に次々と運び込まれてくる体力が弱った多くの子どもたち。原因は「水」でした。
干ばつで清潔な水が不足し、喉の渇きに我慢できない子どもたちは泥水まで飲んでいたのです。
水がなければ、農業もできない。普段は温和な農民たちが水を巡って激しく争うことも。
中村医師は「ほとんどの病気は十分な食べ物と清潔な飲料水があればかからない。飢えや渇きというのは薬では治せない」と気づき、井戸掘りを始めました。
医師の仕事とはかけ離れた、長い長い闘いが始まりました。
◆井戸を掘り進める中・・・事件が!「難民を出してはならない!」餓死寸前の難民たちを救った中村医師の行動力
井戸掘りは最初の1年で600本にもなりました。
ところが、2001年9月11日事件が起きます。「アメリカ同時多発テロ」
首謀者であるテロリストを匿ったとして、タリバン政権下のアフガニスタンが空爆の標的になったのです。
戦争が始まると干ばつに苦しむ農村地帯の人々は、仕事や食べ物を求め首都カブールに。
それを知った中村医師は、「難民を出してはならない!」と強い意思のもと、あることを始めました。
それは・・・「日本での募金活動」
アフガニスタンの困窮を訴え、1か月で2億円の寄付を集めた中村医師は、直ちに戻り食糧支援を開始。
1家族当たり3か月分の食料が配布され、最終的には27万人の命をつなぐことができました。
◆一難去ってまた一難・・・干上がった農地を見て、中村医師は驚くべき決断に踏み切る!
タリバン政権が崩壊し、避難先のパキスタンからアフガニスタンに戻った中村医師たちが目にしたのは・・・
戦争によって農民がいなくなり、井戸は機能しておらず、そこには干上がった大地が。
中村医師はアフガニスタンの未来のため、ある驚くべき決断に踏み切りました。
それは・・・「用水路建設」
雪解け水が流れる川から少し離れた干上がった農地まで、用水路を引くという計画です。
しかし計画を聞いた日本人スタッフは猛反対。井戸掘りだけで手一杯だったのです。
すると中村医師は独学で土木を勉強し、スタッフを集めこう言ったのです。
「議論はいらない。実行あるのみ!」
用水路建設でこだわったのは、「特別な材料は使わない」「現地の人の手で維持や管理ができること」
中村医師自身も重機を操縦したり、できることは何でもやりました。
着工から1年経った2004年3月。1500メートルの用水路が完成しました。
4年後の2007年には、全長13キロまで完成。
引き込んだ水のおかげで干上がった農地には以前のように稲やトウモロコシなど多くの作物が実り、
人々の心に希望が宿ったのです。
争いごとの多くは「貧困」が原因。
戦争や内戦は経済格差によって生まれる。だから農業を立て直す!
豊かな大地に戻ればきっと争いはなくなる。だから「水」が大切なんだ!中村医師の言葉です。
◆中村医師とはどのような人柄だったのか?
①
中村医師は日本に一時帰国し戻ってくる際に、お土産として日本人スタッフにインスタントラーメンを買ってきてくれました!現地での食事は、普段スープとナンでしたが、油っこい味付けで、食事が合わないスタッフもいて、体調を崩したり帰国してしまう人もいたため、そのお土産は非常に喜ばれたのです。
中村医師は現地では何を出されても、現地の人と同じような食べ方で、美味しそうに食べていたそうです。
②
中村医師は夜一人になった時、気分転換のためクラシック音楽をよく聴いていました。
音楽を聴きながら、その日の活動内容をまとめていたそうです。