ワシントンナショナルギャラリー展

新国立美術館

展示会紹介

ごあいさつ

vol.4


前回見ていただいた「モール」の画像からもおわかりのように、アメリカの首都・ワシントンは意外にも自然が多い。もちろんモールから少し離れたところにはビジネス街も広がっているのだが、高層ビルから窓の外を見ると、「あれ林だよね?」と言いたくなるような樹木の群生地がけっこうある。

だいたい、「さあモールに到着です」と言われ、車から降りた瞬間感じたものが、清々しい木々の香りだったことは印象的だ。たとえば都会から山や川に行った時、マイナスイオンたっぷりな森林の匂いに「空気がおいしいねえ」なんて思わず深呼吸してしまうことがあるが、「ワシントンってニューヨークみたいな所でしょ?」と、生き馬の目を抜く大都会を想像していた身としては、まさかそんな感覚をアメリカの首都で味わおうとは思わなかった。

また、ワシントンの西側に流れるポトマック川やワシントン運河、不忍池の4倍もある「タイダル・ベイスン」という大きな池など、「ポトマック公園」を中心とした広大な水辺も、ワシントンの豊かな自然を感じさせてくれるスポットだ。

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さて、ポトマック川といえば、忘れてはならないのが桜並木。桜並木と言えば、エリザ・R・シドモア女史である。

現在ポトマック河畔には約8000本もの桜が植えられ、春になると「ワシントン桜祭」が盛大に行われることは日本でも知られている。この桜の植樹に尽力したのが、地理学者で紀行作家のシドモア女史だ。

1884(明治17)年、27歳で初めて来日し、以後何度も日本を訪れた彼女は、上野や向島の美しい桜をことのほか愛し、祖国アメリカにもこのような桜並木をつくりたいと考えていた。そこで彼女は、以前からの知り合いであるヘレン・タフトが大統領夫人となったことを機に、まだ造成中だったポトマック河畔の景観対策として、日本の桜を植えることを提案するのである。このプロジェクトは時の東京市長・尾崎行雄に伝えられ、1912(明治45)年、東京から送られた約3000本の桜が、ポトマック河畔に植樹されたのだった。

彼女にとって「絵のように美しく、芝居じみ、芸術的」だった当時の日本人の生活は、その紀行文『シドモア日本紀行―明治の人力車ツアー』(講談社学術文庫)に詳しい。そこでも彼女は、

「東京の桜祭りは梅祭りより華美で、驚嘆すべきこの植物は、光り輝く群衆の衣装以上に豪華絢爛です。―中略― 樹木全体から仄(ほの)かな香りが漂い、清らかな天蓋から生ずる薄ピンクにきらめく不思議な光線は花見客を眩惑し、目眩(めまい)すらさせます」

と、日本の桜の美しさをつづっている。

「この国の群衆は何千人集まっても、爆弾を投げたり、パンや資産の分配で暴動を起こすことはありません。ひたすら桜を愛(め)で賛美し、歌に表すだけが目的なのです。」

という上流階級の人が集まった穏やかな上野の花見や、「まさに古代ヨーロッパの農神祭」のように賑やかだった庶民の集まる向島の花見の比較なども、今となっては興味深い。

また彼女は、日本の日刊紙は、春になると桜の開花情報を毎日至急電で知らせると書いており、当時の新聞には桜前線の元祖ともいうべき桜情報のコーナーがあったことも知ることができる。

日本をこよなく愛したシドモア女史は、晩年、自国の日本人への移民差別政策(1924年の排日移民法)に反対してスイスへ亡命、その後、祖国に戻ることなく1928(昭和3)年、ジュネーブで72年の生涯を閉じた。

海外の取材先で、自国を強く思うことなどあまりないが、これほどの強い信念をもって日本との深くつながっていたシドモア女史ゆかりの地となると格別だ。ポトマック河畔にぎっしりと並んだ桜はすっかり葉を落としていたが、いつかシドモア女史の情熱が花開かせた桜を見に、ワシントンを訪れてみたいものである。

アート・ライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」などでアート情報を執筆。
アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。