ワシントンナショナルギャラリー展

新国立美術館

展示会紹介

ごあいさつ

vol18

室生犀星の詩「ふるさと」ではないけれど、ゴッホとは「遠きにありて思うもの」、そして悲しく歌ってもいいけど、友達になったら相当やっかいな人である。

「ゴッホは、常に人の役に立ちたいと思っていた人ですが、人格的にはかなり問題がありました。身なりも悪いし、いつも自分の意見を他人に押し付けてばかり。だいたい彼と2時間も一緒にいれば、もう勘弁してくれ、という雰囲気になったんです」と、ゴッホの性格をオブラートにくるまずズバリと言ってのけたのは、昨年、私が取材したオランダ、アムステルダムにあるゴッホ美術館の研究員氏。そんな話を聞くにつけても、精神的にも経済的にも兄を支え続けた弟のテオや、パリ時代にけっこう仲が良さそうだったロートレック、そしてゴッホと文通を続け、後に『ゴッホの手紙』の資料提供者となるエミール・べルナールなどは、お釈迦様なみに寛容な心の持ち主か、単に無頓着だったか、どちらかだったに違いない。

ゴッホの生涯を簡単にまとめると、以下のようになる。

1853年、オランダの小さな村ズンデルトに生まれたゴッホは、中学を退学後、画商の店員として働き出した。しかし22歳の頃から聖書の世界にのめり込み、父と同じ牧師になろうと宗教家への道を志す。26歳の時には、見習い伝道師としてベルギーの炭鉱地帯に赴任したものの、あまりに熱烈な伝道ぶりが問題となって、結局、伝道師の免許を得ることができなかった。


そんな兄に「画家になれば?」と勧めたのが、画商をしていた弟のテオである。かくしてゴッホは、27歳で、画家になることを決意。33歳の時にやってきたパリでは、印象派やポスト印象派など当時の最先端の絵画に触れ、光あふれる明るい画面を獲得した。あとはもう皆様ご存じの通り、画家の共同体を作ろうとアルルに移り住むも、ゴーギャンとのいさかいから耳切り事件を起こし、精神病院に入院。サン=レミの病院を退院した後は、ピサロが紹介してくれたガシェ医師を頼ってオーヴェール=シュル=オワーズに向かったが、その約2か月後にピストル自殺をはかり、1890年7月29日、37年の生涯を閉じた。


さて、本展ではゴッホの油彩画は3点が紹介されている。まず1888年、アルルに移住したゴッホが、その年の6月、ゴーギャンや他の画家たちとの共同生活を夢見て楽しく制作していた頃の作品《プロヴァンスの農園》。その約1年後、ゴッホがサン=レミの療養院で2枚同時に描いた最後の自画像のうちの1点とされる、痩せて猛々しい感じのある《自画像》。そしてサン=レミの療養院を退院することになったゴッホが、入院生活の最後に描いた静物画群の中の1枚《薔薇》である。



後の2枚は、ゴッホ晩年の作と言ってもいい部類のものだが、ゴッホの悲劇的な死が有名なだけに、たとえば、《自画像》が「最後の」ものと言われば、その痩せこけた表情に不吉な影を、《薔薇》が終焉の地へ向かう前に描かれた静物画と言われれば、そのうねうねと激しい筆致に精神の不安を……、というように、ついそこに「死」のイメージを重ねてしまう人は多いかもしれない。

しかし、前述の研究員氏を含め、オランダやフランスのゴッホ関係者に取材して驚いたのは、誰もが口をそろえて「ゴッホは最後まで前向きに生きようとした」と主張していたことだった。

実は、ゴッホがピストル自殺を図った確実な理由は不明である。ただよく言われるのは、自らをピストルで撃ち抜く3週間前の7月6日、ゴッホは弟のテオ一家を訪れているのだが、その時の会話から、自分の存在が彼らの負担になっていると感じて絶望したのでは? ということだ。

この説と私が取材した海外のゴッホ関係者の話を総合すると、ゴッホは耳切り事件からこっち、精神的な錯乱はあったものの、少なくとも自殺の3週間前までは自らの人生を前向きに歩もうとしていたことになる。それ以降、彼の心にどのような嵐が吹き荒れたのかは知る由もないが、それまでのゴッホはオーヴェールという新天地で、精力的に制作を行っていた。

オーヴェール以前の作である本展の出品作品も、彼の悲劇的な最後にとらわれず、《自画像》にはその射るような瞳にあらためて画家として生きようとするゴッホの決意を、《薔薇》には、白と淡い緑色のコントラストが清々しい勢いある筆致に、あふれるような生命力を、素直に感じることがいいのかもしれない。

さて、早いもので、6月8日から始まった「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」東京展は、9月5日に終了する。と同時に、このコラムも、今回をもって最終回。いつかネタがつきるのではないかとビクビクしていたが、けっこう続いてしまいました。今まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。そして、まだ展覧会に行けていない人には、最後のチャンス。ぜひ、この素晴らしい展覧会を、できるだけ多くの人がご覧くださいますように!


アート・ライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」「ぴあムック」などでアート情報を執筆。
アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。